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【文学紹介】(続き)秋の夜の静寂に響く友情 韋応物 秋夜寄丘二十二員外

1:前回の続き

前記事 【文学紹介】秋の夜の静寂に響く友情 韋応物 秋夜寄丘二十二員外からの続きになります。

穏やかな自然を多く詠んだ詩人、韋応物の作品を見ていきましょう。

2:秋夜寄丘二十二員外

【原文】
懐君属秋夜,散歩詠涼天。
山空松子落,幽人応未眠。


【書き下し】
君を懐(おも)いて秋夜に属し、散歩して涼天に詠ず。
山空しくして松子落ち、幽人応(まさ)に未だ眠らざるべし。

【現代語訳】
今日の涼しげな秋の夜には、殊更君のことが思い出される。私はそぞろ歩きをしながらこの涼しい夜空に詩を吟じる。
人気のない山に松かさがぽとりと落ちた。世俗を離れ隠棲しているあなたもきっとまだ眠らないでいるのだろう。

3:作品解説

今回の詩は五言絶句と呼ばれる形式です。
第二句目の天(テン)と第四句目の眠(ミン)で押韻しています。

ご覧の通り5×4の合計20文字と、最も使われる文字数が少ない形式です。
文字数が少ない分、表現に余白が生まれやすい形式です。

また今回の作品は「秋夜、丘二十二員外に寄す」というタイトルにある通り
友人である丘二十二員外という人物に手紙で送った詩になります。

下の説明にもありますが、友人はすでに隠棲して世俗を離れた山に、
作者はそこから離れた自宅で詩を詠んでいます。

【1句目】

詩は作者の視点から始まります。静かな秋の夜に、友人、丘二十二員外(丘は姓、二十二は排行と呼ばれるもので男兄弟の22番目という意味。最後の員外は役職名)に想いを馳せています。

この丘二十二員外、姓名は丘丹と言い、かつて倉部員外郎という役職についてていたためこう呼ばれています。この詩が書かれた時点ではすでに職を辞して隠棲をしていました。

「属す」は「ちょうどめぐり逢った」という意味。秋の夜が契機となったのか、それともすでに友人への思いが燻っていたのか。秋の夜という時間・空間によって、隠者となった友人への想いが特別なものに昇華しています。

by István Mihál @Pixabay.

【2句目】

続く2句目も同じく作者の状況です。辺りを散策をしながらこの涼しげな夜に詩を吟じている、という感じです。

【3句目】

「山空しくして松子落つ」。山が「空」なので人がおらずひっそりと静まり返った状況です。松子の子は実のこと、つまり松かさです。

「人気のない山の中で松かさが落ちた。」

単なる情景描写に思えますが、「空しい山」とはつまり友人の隠棲している場所のこと。ここで視点は作者の目の前の状況から友人のいる山奥へと移動しております。

by Ayline R @Pixabay

ただ、山奥という大きな大きな空間の中で、松かさの落ちる音が聞こえるというのは静寂が極めて強調された描写であると言えます(暗闇なので松かさが落ちる姿は見えないでしょうし)。

当然作者は山奥にはいないため、この場面は、単なる視点の移動だけではなく、1・2句目で述べられた実際の風景から、友人のいるであろう静寂な山奥という虚構への変化でもあると思われます。

【4句目】

そして最後。作者の想像は静寂な山奥にいる友人の姿へと移ります。
「幽人」は俗世間を避けた隠者のこと、つまり友人の丘丹です。

「応」は「まさに〜すべし」と読み、推定を表します。つまり作者の想像を述べた部分です。
「隠者となった君はきっとまだ眠っていないだろう」というのが直訳になります。

by Igor Makarevich@Pixabay

これだけでは意味がとりにくいかもですが、直前の「松かさが落ちた音」と合わせて考えると、
この音を君は聞いているだろう、いや、音だけでなくこの静謐な夜という空間や趣きを君もきっと共有しているのであろう、という意味にもとれてくると思います。

記述しているのは「まだ眠っていない」ということだけなのですが、それだけでなく「松かさを媒介とした秋の静けさ」「秋の夜の静寂や幽玄の趣」そして「夜という時間でそれを共有し合っているであろう私と君」という想いが幾重にも重なって詰め込まれているのが、この詩のすごいところだと思います。

4:最後に

前半部分で韋応物の詩は、「自然の白描の中に押さえを効かせた形で感情が述べられることが多い」という私見を述べたと思いますが、今回の詩がまさにそれだと思っています。

隠棲した友人に宛てた詩なのですが、特段「会いたい」的な感情表現があるわけでもない。一人で涙を流しているわけでも、昔のことを思い出しているわけでもなく、あるのはただ自然の描写と自身の想像だけです。

by Fetscher_Stahl @Pixabay

それなのに、「君ならきっと感じているだろう」と言わんばかりの、物言わぬ信頼や友情を3・4句目から感じてしまいます。

むしろちょっと澄まして抑えを効かせている分、抑えたものが余計に強く感じられてしまう気さえしております。

このような表現は他の作品でも見られ、例えば同じように友人を想う詩であっても、露骨に涙を流したりはせず、韋応物はただ遠くから見守るだけ、友人や彼の周辺の自然を淡々と描写する形をとります。

しかしそれは決して友情や社会関係の否定ではなく、適切な距離をとりながら友人を見守り想い続けている、非常に人間的な気持ちが込められたものであると思っています。

また余談ですが、今回は五言絶句という非常に短い形式であり、より「行間を埋めていく」ことが必要な詩でもあると思っております。

特に最後の部分などは、短い言葉の中にさまざまな想像の余白があるという意味では、俳句と近いものがあるようにも感じます。

個人的には、上に述べた韋応物の詩自体が余韻・余白を残したものが多い傾向にあると思っており、それが顕著に現れたのが、五言絶句の形をとった今回の作品だったのかなと思っています。

秋の風景を読んだ作品は漢詩に非常に多いのですが、
個人的には韋応物のこの「余白」がとても好きだったのでこの作品を選びました。

韋応物だけの書籍は出ていないため探しにくいかもしれませんが、
有名な詩人ですので、ぜひ探してみてください。

それでは、今回はこの辺で!


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