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現代思想入門を読んで

近代の無限な思考、無限な罪責を問う主体からいかにポストモダン的古代の有限的な世俗性を生きケースバイケースで他者を考えるか倫理を問うかというようなあり方を示してくれています。そして秩序そのものに揺さぶりをかけ規範を脱構築し多様性をいかにして肯定するか。というスケールの大きい話ですが実践的でもありとても良い本でした。 ラカンとルジャンドルについて 母の不在による父の介入により対象a(現実界)という欠如が過剰な欲動のエネルギーとして出てきてけど永遠に満たされずにそこで去勢が必要

    • 僕は全体を体系的に言語化してからじゃないと物事を習得するのに時間がかかる傾向がある。すぐにインプットして実行する能力や反復作業が苦手なのはこの為で個別具体的な事柄から背景情報が見えにくいもの(儀礼、受験やテスト)は苦痛に感じる。ただ言語化するのは人より多少優れているかもしれない。

      • 偶然性とは必然性の否定であり形而上学的情緒である。利他とは偶然性(現在)が必然性(物語化)へと変わりそして運命を感じた時にはじめて可能になるものである。サンデルは実力も運のうちで他でもあり得たかもしれないエリート達が自分の特権を自覚しそれが再配分へと向かうことを主張している。

        • 言語のバーチャル性について考える。例えば足という概念があるが自分の足と机の足は同じ足という記号表現(シニフィアン)で表されるが実質的には差異があるものである。ここで別々の対象を抽象化してカテゴリー化しているが分かる。言語は現実ではないが言語により現実の捉え方を変えることはできる。

        現代思想入門を読んで

        • 僕は全体を体系的に言語化してからじゃないと物事を習得するのに時間がかかる傾向がある。すぐにインプットして実行する能力や反復作業が苦手なのはこの為で個別具体的な事柄から背景情報が見えにくいもの(儀礼、受験やテスト)は苦痛に感じる。ただ言語化するのは人より多少優れているかもしれない。

        • 偶然性とは必然性の否定であり形而上学的情緒である。利他とは偶然性(現在)が必然性(物語化)へと変わりそして運命を感じた時にはじめて可能になるものである。サンデルは実力も運のうちで他でもあり得たかもしれないエリート達が自分の特権を自覚しそれが再配分へと向かうことを主張している。

        • 言語のバーチャル性について考える。例えば足という概念があるが自分の足と机の足は同じ足という記号表現(シニフィアン)で表されるが実質的には差異があるものである。ここで別々の対象を抽象化してカテゴリー化しているが分かる。言語は現実ではないが言語により現実の捉え方を変えることはできる。

          フーコーによる規律社会(学校、工場、病院、軍隊)には"〜してはいけない"という否定や禁止がある。肯定と否定の弁証法が人類の根幹にある。しかし後期近代の能力を求められる社会において"すべてできる"という肯定性の過剰が自己に対する搾取を生む。ADHDや燃え尽き症は否定性から生じない。

          フーコーによる規律社会(学校、工場、病院、軍隊)には"〜してはいけない"という否定や禁止がある。肯定と否定の弁証法が人類の根幹にある。しかし後期近代の能力を求められる社会において"すべてできる"という肯定性の過剰が自己に対する搾取を生む。ADHDや燃え尽き症は否定性から生じない。

          愛とか利他とか贈与について

          合理性の外部にしか愛や利他、贈与、信頼というのはないんだろう。贈与の送り手は未来完了として、受けては過去完了として意図せず解釈される。意図した贈与ならそれは贈与ではなく取引である。意図した利他ならそれは偽善である。あらゆるものが商品として交換可能であり今やマッチングアプリで恋愛するのが当たり前のようになってしまっている。自分の属性、相手の属性が分かりその範囲内で恋愛関係を気づくことなどクソとしか言いようがない事態だ。恋に落ちるとは能動、受動の対立では説明できない中動態的なプロ

          愛とか利他とか贈与について

          近代とは

          近代化=主体化(内因)の問題は平等や自由を囮に格差を隠蔽する。宗教的権威(外因)を排して世俗化していく中ですべての私たちを取り込むような"主体"(自由意志を持ち責任を取ることを可能とする主体)を作ろうとし、それはロックの経験論を受け継いだスミスが道徳感情論で示した共感の快楽を求めた個々人の欲望の追求が偏りのない観察者を内在化させることで市場が発達するような経済システム(資本主義)と他方、カントの理性は経験を経験として可能にするための超越論的条件として同一な自己意識を共有するこ

          近代とは

          主体は虚構である。我思うは正しいが故に我ありは間違いである。ラカンの鏡像段階論を考えると他者を媒介とした三項関係の中に私は立ち現れる。一人称でも三人称でもない二人称の死こそが重要な意味を持ちそういう他者を我々は必要とする。同質な他者や集団に対して同一化することで人の絆は生まれる。

          主体は虚構である。我思うは正しいが故に我ありは間違いである。ラカンの鏡像段階論を考えると他者を媒介とした三項関係の中に私は立ち現れる。一人称でも三人称でもない二人称の死こそが重要な意味を持ちそういう他者を我々は必要とする。同質な他者や集団に対して同一化することで人の絆は生まれる。

          闇の自己啓発を読み終えて

          闇の自己啓発を読みました。帯にある千葉雅也さんの「生きて死ぬことの意味を問い直すために、〈闇と共に〉思考する必要があるのだ」という素敵なコメントがあります。自己啓発と聞くとそれってただ自分を肯定したいが為に読んでるだけじゃんというイメージをどうしても持ってしまうが、この本は学術的な本を引用し、特に現代思想に興味がある自分にとっては、とても参考になる議論でした。以下、気になった箇所を拾い感想を述べていきたいと思います。 木澤 ここにベネターの思想の要諦があります。すなわち、生

          闇の自己啓発を読み終えて

          国家の存在

          国家とは[暴力の権利]を物理的に行使し、法によりありとあらゆる権利を規制することが出来る。そして労働を組織化する事により、そこで生まれた成果を吸い上げる事で[富の権利]を得ることができる。 具体的に[暴力の権利]について見ていこう。[暴力の権利]とは、自分が誰かに暴力を振るったとするだろう。その場合警察に通報された場合自分は捕まってしまう。強制的に自分に対して物理的に権利を行使する事が可能になる。では何なぜ?自分が物理的に人を殴る行為が許されなくて、警察が物理的に自分を捕ま

          国家の存在

          暇と退屈の倫理学を読んで

          國分功一郎先生による人はなぜ退屈するのか?という問いから生まれた本です。人が退屈するという事実を前提としていて、その退屈が如何なるものかを古典を、持ちいて、説明している所が特に面白く感じました。特にユクスキュルという生物学者とハイデガーという哲学者を持ちだし、結論に導く過程が面白かったですね。ハイデガーは、ユクスキュルの環世界という概念を批判し、人間と動物は区別されるべきであり、動物は"とりさらわれてる"状態とし、"とらわれ"の存在にであるが、人間(現存在)は、そうではないと

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          レヴィ=ストロース入門

          第3章 親族の基本構造を読んだ感想 レヴィ=ストロースはインセスト・タブー(近親婚禁止)と外婚制は何故あるのか?という表裏一体の2つにカテゴリーした体系を構造主義を用いて贈与関係(互酬性)があるんだと言ったんですよ。。。贈与は互酬的交換で、経済的利益はもたらさない。また人間を結びつける性質がある。そして女性を譲渡し女性を獲得する。では何故女性じゃなくてはいけないの?それは、採取狩猟社会から定住農耕社会の移り変わりにより、開墾し耕すという持続的な労働力が必要な生産手段としての

          レヴィ=ストロース入門