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暇と退屈の倫理学を読んで

國分功一郎先生による人はなぜ退屈するのか?という問いから生まれた本です。人が退屈するという事実を前提としていて、その退屈が如何なるものかを古典を、持ちいて、説明している所が特に面白く感じました。特にユクスキュルという生物学者とハイデガーという哲学者を持ちだし、結論に導く過程が面白かったですね。ハイデガーは、ユクスキュルの環世界という概念を批判し、人間と動物は区別されるべきであり、動物は"とりさらわれてる"状態とし、"とらわれ"の存在にであるが、人間(現存在)は、そうではないというハイデガーの主張です。そこに対する、國分功一郎先生は、ハイデガーの論理構造を批判し、人間は環世界を行き来できる能力が動物と比べ相対的に高いだけだと主張する。だからこそ自由であり、"とりさらわれてる"状況にない為、人間は自由であるが為に退屈するのだと言いました。ハイデガーの退屈論は、第一形式、第二形式、第三形式があり、第一形式は、暇でありながら、退屈している状態であり、第二形式が暇がなく、退屈している状態だとし、第三形式では、退屈に耳を傾けることを強制されているという主張であり、第一から第三は同じ次元ではなく、一から三に行くごとに退屈に対する意識が、明確になっていく段階だとし、第三で何もかも退屈で絶望してしまうような状況の時、何かを決断する事により、自由な存在になれるのだとハイデガーは主張しました。それは人間だけが退屈であり、退屈であるのは、自由であるが為だという主張です。國分功一郎先生は、この論理構造を第一形式と第三形式は同じだと批判し、第二形式の状態が、普段の人間の状態であると言う。その第二形式という、暇でないが、退屈してしまう中で、人間は、贅沢しその中で気晴らしを存分に楽しむ事を主張する。そしてそれを一歩踏み込み、その第二形式の中で、生まれる余裕を楽しむこと、思考すること、二つのことを享受する事により、人間の環世界移動能力の高さを生かしながら、人間である事を退屈してしまう前提の中で、生を楽しむことができるという主張でした。自分自身にとってもこの國分功一郎先生の主張はとても同意できるものでありました。自分は、ニートであり、暇でありながら、退屈もしている時期が長くあり。何もかもがどうでも良くなり、人生どうでもいいなという絶望感を、そして虚無感を味わされる事がよくあります。ここでハイデガーだったら、何かを決断しろ!それが自由であることを自覚する事に繋がるという無理難題な主張をするだろうと思いますが、國分功一郎先生同様、自分もそれは極端でそれは違うだろ!と反論しますね。それは置いといて、自分は、人間であり、人間であるから環世界移動能力の高さにより、退屈するんだ!という前提が知れて良かったし、みんな退屈してるということを知れて気持ちが楽になった部分はあります。自分も普段、第二形式で生きていますが、今年、大きく変化した出来事がありそれは、古典を読む事であり、哲学、思想書に出会えた事が、人生を楽しむ事、思考する事のきっかけに多少なりました。今までの退屈が何だったのかを考える事ができるようになった事、そのものを楽しめるようになってしまった自分は、退屈の中で、暇を潰せるとても良い手段を見つける事ができました。結局、能動的に色々な事に、知的好奇心を働かせる事がいかに楽しい事かを知る事ができたのは、非常に良かったのかなと思います。考えることは楽しい!みんな問いを立てろ!それでは、この辺で!

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