マケラ/都響の「レニングラード」における違和感
サントリーホールでクラウス・マケラの指揮する東京都交響楽団を聴いてきた。
サウリ・ジノヴィエフ:バッテリア(2016)[日本初演]
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」
ロイヤル・コンセルトヘボウの次期首席指揮者就任が発表された直後の来日だけに今年の目玉間違いなし。
都響との初共演は2018年5月。先見の明があった事務局は笑いが止まらないだろう🤣
東条碩夫さんも見かけたし、業界関係者も多かったのでは? もちろん満席です。
「バッテリア」はパリやブリュッセルで起きた連続テロ事件からインスピレーションを得てるらしく、「映像の世紀」のBGMに合いそうな曲だった😅
現代音楽にしては聴きやすいが、今までコンサートで聴いた現代音楽の初演で「もう一度聴きたい!」と思った試しがない。
細川俊夫や藤倉大もそう。現代音楽は一回聴く分には面白いが……という曲ばかり(吉松隆は例外だけど)。
終演後、客席から作曲家が登場。わずか10分の曲なのにフィンランドから来日していたようだ。
マケラは長身のイケメン。貴公子ぶりは去年東京交響楽団を振ったウルバンスキといい勝負。
ウルバンスキは指揮棒をバトンのように軽快に振り回すダンスのような指揮だったが、マケラもわかりやすくキビキビ拍子を取る。
フルトヴェングラーや朝比奈、山田一雄みたいに手がぶるぶる震えてアインザッツが揃わない(だが、それがいい)は時代遅れのようだ😅
棒の振りもキビキビだが、身体全体でリズムを取ってるくらいカクカク動いてる。楽員からしたら合わせやすいだろう。
そのまま休憩なしで「レニングラード」。今度はスコアをめくりながら(前半は暗譜)。
最近の指揮者でスコアを見ながら指揮する人はあまり見かけない。
ちなみにクナッパーツブッシュもスコア見ながら振ってたらしい。
記者に「なんで譜面を置くんですか?」と訊かれて「わしは譜面が読めるからね」とニヤッと笑ったという話を宇野功芳の本で読んだ(また聞き😅)
通常のコンサートだと指揮者とオケだけで音楽が成り立ってると思いがちだが、本来一番上にくるべきは作曲家。
マケラはあえてショスタコーヴィチの姿や肉声を舞台の上に置きたかったのかも。
指揮台に乗るなり、さっと振り始める。
このへんも現代的なのかな。何でもかんでもタメなくていいのね笑
都響のアンサンブルの精度は高く、アンドリュー・リットンのコープランドのときはひっくり返りまくってた金管も一糸乱れぬ緊張感。
やはり超VIPだと気合が違うのだろうか?(下手な演奏して愛想尽かされて共演NGになったら上層部が激怒しそう😅)
「レニングラード」を生で聴くのはおそらく2回目。前回はテミルカーノフ/読響だった。
テミルカーノフを聴けたのはその1回。ロシアの巨匠だけに「ロシア人ならではの解釈」を期待したのだが、健康的なボディビルダーみたいな造形美だった。
宇野功芳がバーンスタインのベートーヴェンかマーラーを「カロリー満点」と表現していたが、テミルカーノフの「レニングラード」もまさに「カロリー満点」だった。
自分のイメージするショスタコーヴィチとは違っていて物足りなさがあった。
ショスタコーヴィチは好きな作曲家だが、私は歴史に明るいわけでもなく、良さを語れる語彙もない。
ただ従来より「ショスタコーヴィチの描く歓喜は強制された歓喜」という言われ方がされる通り、音楽自体はパワフルだが、それをチャイコフスキーの交響曲第4番のラストみたいに派手にエネルギッシュに演奏してよいのか?という疑問がある。
今日のマケラの「レニングラード」はテミルカーノフタイプの演奏だった。
世界で超売れっ子のマケラであるから、演奏の精度は高い。
ただ、それは「映像の世紀」の戦争映像を現代の技術で限りなくクリアーに高画質化したものであったり、「スター・ウォーズ」の「エピソード1」に似ている。
私は「スター・ウォーズ」のファンではないが、1999年に16年ぶりにジョージ・ルーカスが新作を撮ると世界的に話題になり、慌ててエピソード4、5、6をビデオで見た。
それからエピソード1を映画館で観たのだが、拍子抜けした。
もともとCG自体にさほど興味がないのもあるが「CGの技術は格段に進歩したけど、作品としては前の方が面白かった!」と思ったのだ。
映画以外もそう。技術のクオリティーは年々進化しているけれど、芸術の感動とリンクしているわけではない。
また宇野功芳からの借用で恐縮だが、『カラヤンが小澤征爾に「シベリウスの音楽を理解するにはフィンランドの自然を知らなければならない」と言ったらしいが、トスカニーニなら「楽譜に書いてあることを音にするだけだ」と言うに違いない』といったことが書かれていた。
シベリウスならそうかもしれないが、ショスタコーヴィチに関しては楽譜以外の知識もかなり必要とされるのではなかろうか。ハイドンやモーツァルトとは違う。
庄司紗矢香はロシア音楽の理解を深めるためにロシア文学を読んでると言っていたし、オペラの理解には文学や歴史文化の知識も必要だろう。
今日のマケラの「レニングラード」は集中力を増す聴衆とは裏腹に、第4楽章に突入したころには完全に白けモードになってそのまま終わってしまった。
案の定、万雷の拍手で、その熱量に居たたまれなくなってマケラが2回舞台袖に引っ込んだタイミングで退席してしまった。おそらく熱狂的なソロカーテンコールもあったに違いない。
マケラの「レニングラード」は音のパノラマ、一大スペクタクルといったもので、演奏効果は甚だしいが、私の期待するショスタコーヴィチ像ではなかった。
家にあったケーゲル盤はもっと寒々しい演奏だったはずと思いながら、帰宅途中にサブスクでラザレフ/日本フィルの音源を聴いた。
こちらは従来の「強制された歓喜」のイメージで、聴いてて「これ、これ!」感があった。
どんなに音楽が白熱してても、それは決して手に汗握るボクシングの試合のようではなく、焚き火の上で踊らされてる人のようであってほしいというのが私のショスタコーヴィチ像。
いや、あんまりショスタコーヴィチのこと知らないんですけどね😅
「強制された歓喜」も古くさいステレオタイプかもしれませんしね。
せっかく譜面台にスコアを置きながら、作曲家と切り離された音楽だけをドラマティックに構成して現代的なコース料理を仕上げる。
それはそれで3つ星シェフの腕前なのでしょうが、泥臭くてもいい、大きなミスがあってもいいからもっと生々しくおどろおどろしい背筋に寒気の走るショスタコーヴィチを聴きたかったです。特に2022年の今において。