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高堂つぶやき集。
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2023年9月の記事一覧

光蔭矢の如し。「時が足りぬ」と自己実現に向かひ、人は時を失ふ。偽りの自己を実現をすれば、今度は「意志が足りぬ」と天命の意味に迷ふ。こうして大概の人がさらに時を失ふ。しかし空から觀るならば、時も意志も己の裡になく、己すら借物であったことに氣がつく。時と意志から遠き場に身を置かれよ。

自然に咲く花もよいが、古い家の傍らで咲く花も美しさが安定している。家を行き来する方々を永いこと見守りつづけてきたのであろう。一年に一度しか咲かぬ花は少なくないから、一期において意外と同じ花を愛でられる機会は貴重かと思う。写真は今夏、古きよき金沢を歩いていたときに撮った一葉である。

二十年前からこの露地を歩いているけれども、影が眼にはいるようになったのはつい最近のことになる。それまでは陽があたる場しか見れていなかった。つまり、片目のみで明るいものだけを眺めてきたのであろう。影を觀てこなかったが故に、両目で物事を経験するといった営みが疎かになっていたのである。

過日の夕刻ほんの数分だけ二重の虹がふっと現れた。真ん中の濃い虹が主虹と呼ばれ、右側の薄い虹を副虹と云う。後者は大氣の水滴に二回反射されてできるものであるから、非常に稀なもので、よくご覧いただくと主虹の色が反転し、夕暮れのカンバスに映しだされている。吉兆らしいので、お裾分けしたい。

家人が時折、喫茶店のヘルプに伺うようになり、珈琲を憶えてきたようであるから、過日に便乗して私も教わりながら珈琲なるものを淹れてみた。湯を三回に分けて注ぐことで、苦みと酸味とそれから何であったか。何かが整えられるということである。茶の湯ならぬ珈琲の湯を愛でた休日の平凡な朝であった。

過日、子持ちの狛犬がいるという叶神社に家人と寄ると、なるほど左右の狛犬に子狛犬が三匹ほど居る。母狛犬はそのうちの一匹を授乳中で、写真のは他の二匹を育み守っている父狛犬であろう。この叶神社は或る湾を挟み、東西に分かれて建てられており、東にこの和氣藹々とした親子狛犬が左右においでる。