√400年ぶりの再会|小川洋子『博士の愛した数式』
はじめて読んだ小説は何だろうか。
私にとってのそれは、中学生の時に出会った小川洋子さんの『博士の愛した数式』だ。
人生ではじめて小説の単行本を最初から最後まで読破した感想は「優しくて、きれいなお話だな」だった。物語の内容以上に、私の心は「読み切ったぞ」という達成感で満たされ、ちょっと大人になれた気がした。
決して登場人物の本名が出てこないことや、「家政婦」という珍しい職業、「ミートローフ」「母屋」といった新鮮な響きの言葉の連続に、なんだか普段の生活とは地続きじゃない不思議な世界に足をちょっとだけ入れた気持ちになったのだった。
まんまと小川洋子ワールドの虜だ。
だけど、美しい物語の奥底にずっと流れる、えも言われぬ「哀しさ」みたいなものも、言語の水面に表出しない心の部分でキャッチしていたと思う。
あれから20年。
昨年の年末に、ふと思い立ち、私はこの小説を再読することにした。
何度かの引っ越しのタイミングにも捨てることなく手元に置いていた1冊だが、実は、時間が経つにつれこの物語を大人になった自分が読むことを少し恐れていた。
なぜかというと、世の中の汚いことやうんざりすることを嫌というほど知ってしまった現在の自分が、この物語をどう受け取るのか不安だったから。
「なんか不思議な病気」と受け取っていた博士の記憶の症状を、福祉の業界にどぷんと浸かっている今の私は(推測だが)「高次脳機能障害」という知識を当て嵌め、博士をその中に閉じ込めてしまうのでは。
出会った瞬間に問答無用で小学生のルートを抱き締めてしまう初老の博士の「無償の愛」を、そのまま「無償の愛」として本当に読めるのだろうか。
当時と同じ感想をもつ必要はないと分かりつつ、この20年の年月に、「優しくて、きれいなお話」と感じた自分の中の物語の世界を変られえてしまうことが、なんだか怖かったのだ。
だけど、読み始めると、そんな心配はすぐに忘れてしまっていた。
そこには、20年前と変わることなく静かで柔らかい、あの数学の世界が広がっていた。
博士はきちんと「80分しか記憶がもたない博士」としてそこに佇んでいた。
どれだけいろんな障害を持つ人や認知症の方との出会いを経験しても、博士を博士以外ではありえない個人として認識できたことが嬉しかった。
当時の私はルートとあまり変わらない年齢だったのに、語り手の「私」より年上になってしまったことが少しショックだったけど。
変化があったとすれば、微量にキャッチしていた通奏低音のような「哀しさ」がより濃く深く心に入り込んでくるようになっていたことだろうか。
こんな描写が、読者を博士の孤独な精神世界の深淵に触れさせる。
博士の孤独も、母屋の博士宅をそっと離れから見守る未亡人との過去も、ルートの生い立ちも、変わり者に対する「世間」からの風当たりも、決して優しいだけの世界ではない。
だけど、それらを包み込むような何気ない心の通い合いや日常の風景、たとえそれが刹那的なものであっても、いや、だからこそ、どうしても彼らの幸せを祈ってしまう。
小川洋子ワールド、恐るべし。
この本の発売は2003年で、その年は18年ぶりに阪神タイガースが優勝した年だ。
読むきっかけとなったのも、母が新聞で「阪神のことが書いてる本があるらしいで」と、熱烈阪神ファンの私に教えてくれたことだった。
私が人生で初めて阪神の優勝を経験し、人生で初めて小説を読んでから20年。
色褪せない、というと月並みではあるが、これは間違いなく「永遠」を描いた物語だ。
またしても18年ぶりに阪神が優勝した年にこの本を再読できてよかった。
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