マルクス・ガブリエルと小沢健二 ニヒリズムとメランコラリズムを超えていく
前回の記事では、サッカーW杯での機械判定の導入がもたらすもの、人間の判断と機械の判断をめぐって考えた。記事をアップした直後、機械判定を象徴するプレーが発生した。それは2022年12月2日のことである。
機械の正しさと人間の道徳
その後、「三苫の1ミリ」と言われるようになる、機械によるジャッジのもっとも象徴的なシーンが生まれたのは、日本対スペイン戦の後半のことである。観戦していた多くの人たちがラインを割ったと見たボールは、VARによる判定でラインインを認められ三苫のアシストがもたらした日本代表にとっての2点目であり、この試合の決勝点は認められた。
主審も副審もプレーの時点ではラインアウトを判断しなかったが、これは不用意にプレーを中断して、決定機を阻害しないというこの大会から取り入れられた配慮に基づくジャッジであるようだった。
審判による当該プレーにビデオ検証の時間の間、Abema TVで解説していた本田圭佑も「出た」と述べていたし、後の談話では三苫選手自身も森保監督に「出たと思う」と言ったそうだ。
しかし、VARの判定は違った。上空からの画像ではわずかにボールの端がラインに重なっていたのだ。この瞬間、世界中のサッカーファンが機械判定を祝福した。ただ、ドイツ代表の選手とサポーターを除いては。アンダードッグである日本が、強豪・スペイン代表を逆転したプレーは利害に関係しないほとんどのサッカーファンにカタルシスを与えるものであった。
そして、日本は勝った。
このジャッジついての異論は、サッカーの母国・イギリスから発せられた。元イングランド代表のスタン・コリモアが「三苫の1ミリ」をめぐって「VAR廃止」を主張しはじめたのだ。以前はVAR擁護派であったはずのコリモアはこう語った。
この主張についてはVARではなくルールの問題であり、ルールを厳格に適用したことを問題にすべきではないといった反論がすぐに起きた。
サッカーのゲームでは、ジャッジをめぐる議論が絶えない。「それもサッカーの一部だ」といったロマンもあったにはあった。コリモアの発言もその一部ではあるのだが、私が注目したのは、「道徳的に」の部分である。これを「美しくない」などと美学(ロマン)に訴えればまだしも道徳が持ちだされたのだ。前回の記事に従えば、“数学的には正しいが道徳としては間違っている”と言っているのだ。こうも言い換えられるだろう。
「科学やテクノロジーより人間のほうが正しい。なぜなら道徳的だからだ」
とはいえ道徳の証明は困難だ。科学にそういった困難は無縁だ。科学が提供する証明に絶対の根拠をおくことを思想的には自然主義という。唯一の真実のみあるという考え方は独断主義ともいわれる。対して、人間の直感や認識によって真実を対象化することを相対主義という。
機械的であるか、人間的であるか、この2つを軸に近代史は進んできた。大掴みにいえばそうなる。そして、近代(モダン)、ポストモダンを経て、いよいよこの2つはぶつかろうとしている。それが、このW杯でも起きたことだ。
思弁的にポストモダンを乗り越える
前回も同じ問題を考えるために、ポストヒューマニズムといわれる潮流について論じた書籍を紹介した。思弁的実在論といわれるものだが、すでに思弁的実在論という論壇は消滅している。2007年4月に開催された学術会議の名称として使われたのが最初である。この時、会場であるロンドン大学ゴールドスミス・カレッジに集ったのは、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン、カンタン・メイヤスーらである。
彼らの個々の思想的な見解はその後、大きく異なっていくことになるのだが、実在を改めて問い直そうという姿勢に共通点がある。ポストモダン以降の哲学潮流では、存在そのものを問うよりも、それを対象(現象)として捉える人間の認識のほうを追求してきた。認識の外には存在はない。認識できないものは存在しない。私たちは人間の認識しか共有することはできない。それはつきつめれば、何を認識しても主観を逃れることができないということだ。私にはあなたに見えている景色も、聴こえる音も知ることはできない。できているという認識はあってもそれを確認する術がない。つまるところ、世界は人間の認識によってできているということだ。これこそが「人間中心主義(ヒューマニズム)」の源泉になっていく。
こうした人間の主観を中心とする考えに対し、自然科学の客観性を絶対とするのが自然主義だ。前回に書いたようにガリレイ以降、世界は数字で記述できるようになっていった。オッカムの剃刀のごとく、なるべくシンプルにたった1つに集約される真実を追い求める。近代以降の自然科学はこのように進化してきた。自然科学者の究極の夢は「統一理論」である。たった1つの理論で、世界のすべてを記述するのだ。
認識と存在について改めて問い直し、思弁的にポストモダンを乗り越えていこうというのが思弁的実在論としてまとめられる潮流だろう。思弁的とは、経験ではなく──つまり人間の主観に頼ることなく──存在を解き明かそうという意味が込められている。
個々の思想について分け入って解説するのは私には無理な話だ。『思弁的実在論入門』(グレアム・ハーマン著/上尾真道、森元斎訳/人文書院)では、当事者であるハーマンによって書かれている。「相関主義」を最初に提唱したメイヤスーの思弁的唯物論、ハーマンのオブジェクト指向哲学、ハミルトンらの超越論的唯物論、ブラシエの超越論的ニヒリズムについてそれぞれ章をわけて解説される。当事者が執筆しただけのことがあって、それぞれの思想の違いが明確になっており、立場や考えの違いによって全体像を眺めることができる。
ヒューマニズムを更新する
とはいえ『思弁的実在論入門』は読むのに、少々、骨が折れる。カントやヘーゲルだけでなく、デリダやドゥルーズについてもある程度は整理をつけて理解していないと議論そのものについていくことは難しいだろう。かくゆう私も半分ぐらい理解できたかかどうかというほど心許ないと告白しておこう。
日本人の手による入門書としては『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』(岩内章太郎著/講談社選書メチエ)が面白かった。アニメやサブカルからも例をとって親しみやすく実在論の現在を解説してくれる。余談になるが「エモい」という若者言葉から、現在の私たちの有り様を探るあとがきは胸をつかれる思いがした。
思弁的実在論が、いかにして相対主義と独断主義の限界を見極め実在の真相に肉薄していくのかがよりわかりやすく解説されるこの本で、しかし、私を大きく頷かせたのはメイヤスーやハーマンの哲学とはやや流れを異にしつつも、同じく実存をめぐる哲学を展開するマルクス・ガブリエルについての違和感とシンパシーである。日本でもNHKの番組に大きく取り上げられ、書籍も多く刊行されており、“ロックスター”とも評される天才哲学者が推し進めるのは「新実存主義」といわれる哲学だ。
ガブリエルは新実存主義によって、相対主義と独断主義、人間中心主義と自然主義を包括してしまうような大きな論点を準備する。いや、むしろ「人間の死」(フーコー)を乗り越えて、ヒューマニズムを更新しようとしているかのようだ。ここにこの記事のテーマである道徳が絡んでくる。
ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳/講談社選書メチエ)のなかで、道徳も倫理も、自然主義とは別用の論理によって実存すると述べたからだ。「意味の場」といわれる無数の対象領域において、道徳も倫理も意味を生成しうるからだ。
「あらゆるものが存在するが世界は存在しない」とガブリエルは論じる。世界という概念は物理学が扱う宇宙もよりも大きく、「意味の場」で捉える──その外側から対象とする──ことができない。
道徳も倫理もひとつの原理(形而上学)として実在しつつ、個々の解釈(構築主義)として共通の道徳と倫理を与える。しかし、形而上学だけでも構築主義だけでも不足だ。これらを合わせた新実在論だけが、実在を問い直すことができるとガブリエルは言う。
ニヒリズムにもメランコラリズムにも陥らない
正直に告白しよう。私は数年来、マルクス・ガブリエルに違和感に似たものを抱いてきた。それは明確ではないが、どうにも釈然としない感覚だった。
そもそもは、『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』(マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン著/斎藤幸平編/集英社新書)で斎藤幸平との対談において、トランプ元米大統領をニーチェが定義した「金毛獣」と呼び、ナチスの思想の一部を支えたニーチェに対しまったくの拒否を示したこと、そして、全体主義を議論の余地のない絶対の悪として一方的に否定する言説に触れていたからだ。
哲学者がこのような思考放棄をしてよいのだろうか。ましてや、天才と称され今世紀を代表する哲学者にならんとしているガブリエルの言葉とはとうてい思えなかったのだ。同対談では、斎藤幸平による落合陽一らテクノロジストへの批判へも同調し反科学を明確にしていることも、なんだか短絡に思えた。いや、そんなはずはない。こうした言説は、戦略的なもので実践的に全体主義を退けるためのものだと考えようとしたが、どこか受け入れ難く感じていた。古びたリベラリストの感想文のように感じたのだ。
そのガブリエルの新実存主義について、先に挙げた『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』で岩内はむしろこれまでの伝統的な哲学態度によって身動きを封じられてしまわないために思考されていると読み解く。ニヒリズムにもメランコラリズムにも陥らないで、私たちの“生”というリアル(実存)をいかに考えるか。そのためには自然科学から得られる理論にのみ根拠を求めるべきではないし、思弁的な袋小路をうろつくのではなく経験的に壁をぶち破ることが必要なのではないか。萎びたヒューマニズムを、多様性のなかに失われた人間への信頼を、今いちどなんとかして取り戻すしかない。ガブリエルはそう訴えていると岩内の書籍から読み解くことができたのだ。
それはショッキングな発見だった。自分自身の在り方の不明を理解することだからだ。
話は逸れるようだが、かつて小沢健二が終わりのないおしゃべりで現実を洒落たフレームに入れるフリッパーズギターを解散したとき、こう歌った。
小山田圭吾が「尾崎豊のようだ」といった、この小沢のポジティビティの眩しさを思い出したのだ。確信犯めいたポジティビティでニヒリズムもメランコラリズムも焼き払った。「すべての音は鳴ってしまった」というポストモダン的な状況にあったポップ、ロックシーンで新たな地平を切り開くために、もっともニヒリスティックだった小沢が手にとったのは、小沢がかつて自意識過剰に避けていたポジティビティだったのだ。
ガブリエルはニヒリズムとメランコラリズムを超えていくために、確信犯的に直線的に信念を訴えているのではないか。そう思えたのだ。
意識、心は脳に還元できない
とはいえ、マルクス・ガブリエルの言説には哲学者からさまざまな批判にさらされる。マルクス・ガブリエルの論文を新書にした『新実存主義』(廣瀬覚訳/岩波新書)では、チャールズ・テイラー、ジョスラン・ブノア、アンドレーア・ケルン、本書の編者であるジョスラン・マクリュールが疑問を呈する。
疑問の根幹はジョスラン・マクリュールによる序章に集約されている。
哲学が扱ってきた「心」の問題を、自然科学が脳科学によって心と意識を還元的に捉えようとすることを拒否する一方で、脳は心の必要条件にはなるというガブリエルに対し、次のように述べる。
この問題が重要なのは、AIが脳のニューロンを模して進化した反面で、脳そのものもある種の計算機として解明できると思われているからだ。議論を端折ってしまえば、AIが人の脳のようになれば、おのずと「心」も「意識」も生まれる。還元主義とは、そういう考え方なのだ。
「心や意識は計算できないが、まったく計算できないともいえない」
今はまだそんなふうにしか言うことができない。
マルクス・ガブリエルの新実存主義はまだまだ議論の余地を多く残しているし、それはとりもなおさず発展の余地でもある。ガブリエル自身も自然主義との折り合いをつけかねているとみてもいいのだろう。自然科学がもととなる真理に対し、哲学者としてどう向き合うのか。そのことによって人々の生をどう取り戻すのか。
実存主義の始祖たるサルトルは「実存主義はヒューマニズムである」と言った。その後の思想家たちは、これを相対化した。
ヒューマニズムはそんなに普遍的ではないですよね? 普遍的なヒューマニズムなど終焉(人間の死)しましたよね?というわけだ。
面白いのは、この時代、どういうわけか、哲学者もいなくなった。彼らはみずからを哲学者とは呼ばなくなっていったのだ。
停滞したヒューマニズムと、停止した哲学を、私たちの生のために呼び戻そうとしている人こそ、マルクス・ガブリエルなのかもしれない。
サッカーW杯でのVARについて、コリモアが求めたのはある種のヒューマニズムと言えるだろう。機械的な正確さよりも人の目によって事実とみえるものでゲームを成立させるべきだということだ。しかし、VAR導入以降、私たちはもはや人によるジャッジのみを額面通りに受け入れられない。同じように、自然科学によって立脚している生活のなかで、それを疑うことは、カルトやら陰謀論やらにのみこまれてしまうに等しい。私たちはもはやただ反自然主義だけを選ぶことができない。
私はガブリエルが進む困難な道を追うことにしよう。
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