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リエゾン学級経営 :「ふつう」の概念をイノベートして共生社会を目指す#141

中教審答申「令和の日本型学校教育」実現への課題

令和の日本型学校教育は、2020年代を通じて目指すべき学校教育の姿として、中央教育審議会において答申されたものです。
この答申では、全ての子供たちの可能性を引き出すために、個別最適な学びと協働的な学びの実現を重視しています。

個別最適な学びとは、一人ひとりの子供の興味・関心や学習状況に応じて、最適な学びを提供することです。
そのためには、子供の理解度や習熟度を把握し、その結果に応じて指導内容や方法を調整することが重要です。
また、子供自身が自分の学びを主体的に考え、計画・実行・評価できるような環境を整えることも大切です。

協働的な学びとは、子供同士が協力しながら学び合うものです。
そのためには、子供同士が協力し合うためのルールやマナーを身に付け、お互いに尊重し合いながら学び合えるような環境を整えることが重要です。
また、子供たちが主体的に学び合うことができるような課題や活動を設定することも大切です。

令和の日本型学校教育が目指す個別最適な学びと協働的な学びは、いずれも子供たちの主体性を育むことにつながります。
子供たちが自分の興味・関心や学習状況に応じて学び、お互いに協力し合いながら学び合うことで、自ら考え、行動できる力を身に付けることができるのです。

個別最適な学びは、「個に応じた指導」の理念を具体化するものとして位置づけられています。
支援を必要とする少数派の子どもたちは、診断の有無にかかわらず、さまざまな特性や課題を有しています。
そのため、一人ひとりの特性や課題に応じて、学習内容や方法を調整することが重要です。

協働的な学びは、「共生社会」の実現に向けた重要な取り組みとして位置づけられています。
支援を必要とする少数派の子どもたちは、多数派の子どもたちと共に学校生活を送ることになります。
したがって、多数派と少数派が互いに寄り添い合いながら学び合っていかない限り、共生社会の理解や共感力を育むことはできません。

この個別最適な学び・協働的な学びの実現の障壁となる課題が2つあります。
①特別支援教育のスキルアップ。
②多数派と少数派が互いに寄り添いあい、共感しながら学び合うことのできる学級づくり。

この2つを解消しない限り、令和の日本型学校教育は実現は絶対にできないと確信しています。

この2点を解消する学級経営手法が、リエゾン学級経営です。

このような現状や課題をふまえ、多様性を尊重し共に学び成長する新たな教育アプローチとしてリエゾン学級経営を考案しました。

全員が多様性を尊重し、誰にとっても居心地のよい場、楽しく学びながら互いを認め合う学習環境を築き、目標に向かって努力しながら成長できることを目指します。

学級経営(ゴール設定)×心理的安全性(居場所づくり)×特別支援理解教育(多数派・保護者・教職員への理解)=リエゾン学級経営

今回は「ふつう」って何か考えながら、少数派と多数派の意味について理解を深めていきたいと思います。

「ふつう、そんなことしないよね!」
「ふつう、そんなこと言わないよね!」
「ふつう、そんなことで怒らないよ」
みなさんは、この「ふつう」という言葉を何気なく使っていませんか?
そういう私自身も使ってしまうことがあります。

私たちは生活の中で「ふつう」という言葉を知らず知らずに使っています。
激安スーパーなどに行ったとき
「ふつう、こんなに安くないよね!」
とか。
しかもその言葉がどんな意味かよく考えもせず、枕詞のように使っているのです。

そもそも、日本の教育システムは明治時代に制定された学制以降ほとんど変わったいないといっても過言ではありません。

これだけ、時代が変化しているにも関わらず、日本の教育は、ほとんど変化していないことは大問題です。

1クラス40人が35人になったくらいの変化では、教育は変わるほど単純ではありません。

もはや、日本は教育において後進国となっているのが現状と言えます。

ICTは、教育システムの変革の起爆剤にもなりえますが、運用する教師側の能力差などが、さらなる教育格差を生むことにもなりかねないので、組織的な対応策(UD化)が必須と言えます。
仮に全員が同じ能力を身につけたとしても、特別支援教育の理解及び、学級経営理論の理解がないと学級経営自体うまくいきません。

話を戻します。

さて、「ふつう」とはどんな意味があるのでしょう?
この「ふつう」とは
「みんなと同じ」「多くの人と同じ」
という意味で使っているはずです。
教室で使う場合、「クラスのみんなと同じ」「クラスの多くの人と同じ」ということになります。
全員が全く同じことをしているのであれば、この「ふつう」という言葉は必要ありません。
また、同じことをする必要がなければ同様に、「ふつう」という言葉自体、必要なくなります。

日本は学制以降、一斉指導スタイルを原則として指導をしてきたため、一人の教師が、同じ課題を40人近くの子どもに教えてきました。
算数などでは、習熟度別の少人数制を導入してはいるものの、他教科では相変わらず一斉指導の形態しかありません。

この一斉指導スタイルであるがゆえに、「みんなと同じであること」が強要されてきたのです。

例えば、授業の始まりを考えてみましょう。
小学校では、ほとんどの場合、チャイムが鳴り終わるまでに着席し、チャイムが鳴り終わったら、挨拶をして授業が始まります。
クラス全員が、チャイム前に姿勢よくして座り、チャイム直後に挨拶ができていれば、「ふつう」という言葉は生まれません。

ですが、座っていない子が数名いたらどうでしょう?
チャイム前に座っている多数の子たちは、
ふつう、チャイムが鳴ったら着席するよね」
となります。
この座っている子達は「多数派」です。
そして、座っていなかった子達は「少数派」となります。

どうして「ふつう」という言葉を使ってしまうのか?
それは、多数派の子たちが、少数派と区別するためです。
おそらく意識して使ってはいないでしょう。
しかし、少数派と自分は違うという意味で使っているはずです。
そしてこの多数派の子たちが
「ふつう」を使い始めると、
少数派の子たちは、できないことが顕在化され、自信をなくします。
この構造こそが、いじめや不登校の種となり、
少数派の子たちを追い詰め、いじめや不登校を生み出すことになるのです。

これは、支援を要する子たちだけの問題ではありません。
テレビなどで、アイドルが学生時代に壮絶ないじめがあったなどと、カミングアウトすることがあります。

これは、アイドルという芸能活動する子は少数派であり、その華やかな生活から多数派の子たちの妬みを生み、いじめが起きるのです。

では、逆に、少数派の子たちが「ふつう」を使ったらどうなるでしょう?

「ふつう、チャイムがなっても理由あれば、着席できないこともあるよね」
「ふつう、つまらない授業を短くするために、着席しないよね」
「ふつう、行きたくなかったら学校行かなくてもいいよね」
となります。

この少数派の論理が多数派となってしまったら、どうなってしまうのでしょう?

40人学級のクラスなのに、10人しかいないなんていうことにもなりかねません…

オンライン授業で出席が認められるのであれば、このような事態になってもなんとかなるかもしれませんね。

しかし、学校にきているのに、授業に参加しないとか、授業始まっても教室に戻ってこないという事態になったらもう、収集つかなくなります。

ではどうしたらよいのか?

人は、一人一人発達の違いがあるということを理解し、その考え方を
「ふつう」
にしていかなければいけないのです。

そして、一人一人に居場所を提供していかなければいけないのです。

このことを理解した上でICTを活用していけば、成長の相乗効果が期待できます。

みなさんでリエゾン学級経営を実践していきましょう。

行動すれば教育も変わります。
行動しなければ何も変わりません。

このように、これまで「ふつう」という言葉は
多数派の子たちが、少数派と区別するために使われたきた経緯があり、
この「ふつう」の概念を「一人一人発達の違いを理解すること」に変えていくことが必要なのです。

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一緒に教育をイノベートしていきましょう。!!

一人でも多くの方がこのリエゾン学級経営に賛同し、実践していただけることを願います。
実践手法は今後随時紹介していきたいと思います。
お楽しみに!

すべての子どもの幸せを祈って!

#ウェルビーイングのために
#多様性を考える


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