「色即是空」で読み解く映画『きみの色』
昨日、映画『きみの色』の感想を投稿しました。
この映画についてはまだまだ書きたいことがあります。
昨日の記事では割としっかりめ(?)な内容を書いたので、本稿はわりかしフリーダムな感じでまいりたいと思います。
■「宗教」と「色」といえば?
主人公・トツ子が通う高校はミッションスクール。
劇中に聖書の言葉が登場したりと、どこかしら「宗教」的要素が入ってきます。
そして本作のタイトルは『きみの色』。当然「色」も重要なファクターです。
「宗教」と「色」と聞いて連想するのはもちろん「色即是空 空即是色」、もうこれしかないですよね!
「色即是空 空即是色」なんてまたコイツはテキトーなことを言ってるよ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、ちょっと待ってください。
般若心経で超有名なこのフレーズは、どうやら『きみの色』の企画書の段階で出てきているようなんです。
ところで本年9月刊行の『CONTINUE』Vol. 84(太田出版)には『きみの色』の特集記事が掲載されています。
そこでの山田尚子(監督)と牛尾憲輔(本作の音楽監督)の対談でこんなやり取りがありました。
ほら、出てきたでしょ!(それにしてもそれで「ガッテンだ!」と即理解する牛尾さんもすごいですね)
結局曲名として残ったのは「水金地火木土天アーメン」の方ですが、「色即是空 空即是色」の考え方は、本作に通奏低音として流れている気がするんですね。
だから「色即是空、空即是色」である程度『きみの色』を読み解ける部分があるのではないか? というのが本稿の趣旨です。
そもそも「色即是空 空即是色」はどんなことを言い表しているのか、というのをまず見ていきましょう。
とは言え私も仏教の専門家ではないので、泥縄式に仕入れた知識を開陳するだけではあるのですけれども。
■ 色即是空
元々の自分の認識として、「色即是空」はけっこう有名なフレーズだと思うのですが、そのあとの「空即是色」はそんなんあったっけかな、という感じでした(このくらいの認識しかない程度の低い人間が現在この文章を書いています、ご留意ください)。
まずは前半の「色即是空」。
真ん中の「即是」は「即ち(すなわち)是(これ)」なので、仮に「A→Bである」という文章があった場合、「→」に当たる箇所が「即是」。助詞みたいなもんですね。
となってくると、重要なのは「色」と「空」ということになってくるわけです。
「色」は、“この世のすべての事物や現象”を指します。
この世に見える“物体”や“形”といったところでしょうか。
そして「空」。これは“実体がない(定まった形がない)”ことを指します。
つまり「色即是空」は
ということを言っています。
これは要するに何を言いたいのかを自分なりに解釈すると「モノに執着すんなよ」ということですかね。
自分もモノをコレクションする傾向があるので特定のモノに対しては「あれが欲しい、これも欲しい」という気持が働くのですが、人間という存在は将来どこかで寿命を迎えてこの世からオサラバしなくてはなりません。
「これは自分のモノ!」と思っていても、いつかはどうせ手放すしかないのですから、結局周りのモノはすべて「借り物(仮のもの)」なのです。
目に見えるカタチとしては確かに存在するけども、その後実質自らの手から離れて失うようなもんなんだから、最初から「空」と考えていた方がモノへの執着が薄れてなんだか気持がラクになってくるっしょ? というのがおそらく「色即是空」の教えなのでしょう。
■ 空即是色
そして後半の「空即是色」。
前半の「色即是空」の「色」と「空」の位置を入れ替えただけです。
「A→Bである」と言っていたのを「B→Aである」と言い直しているんですね。
これは
という意味合いです。
空は、実体がない(定まった形がない)状態を指しますが、空であることで初めてこの世の万物(色)が成立するということを表しています。
つまり、カタチを持たないからこそ、どんなカタチにもなれる。
■ 色即是空 空即是色
「色即是空」と「空即是色」がセットであるのにはやはり意味があるのです。
前半の「色即是空」で「お前らいいか? この世にあるモノの本質、空で全部意味ねーから!」と一旦聞き手をヘコませておいて、後半の「空即是色」で「でもな、よく聞いてな。空だからこそ、この世の全てが成り立っているんやで、ありがたいと思わんか?」とあったかいブランケットをファサッとやさしく掛け、聞き手は「確かにそうだ。ありがたや、ありがたや……」とイチコロになるわけです。
要するにそういうやり口っしょ?(そういう言い方はよくないと思います)
閑話休題。
空即是色。
これを人間に当てはめるとすると「まだ将来が分からない子供」になるでしょうか。
まだ何者でもないからこそ、何者にでもなれるチャンスがある。
「まだ将来が分からない子供」……。
それはもしかしたら、『きみの色』のトツ子・きみ・ルイのことなのかもしれません。
そして般若心経では「色即是空 空即是色」ですが、『きみの色』においては「空即是色 色即是空」の順番なのではないかと私は思っています。
■『きみの色』の空即是色
まずは空即是色。
トツ子は人の“色”が見える感覚を持っていますが、自分自身の色が見えたことがなく、そのことを彼女は少し残念に思っていました。
きみ。先程も登場した『CONTINUE』Vol. 84、19ページのインタビューにおいて監督・山田尚子は「きみちゃん自身、自分を空っぽだと感じている人」だと言及しています。
そしてルイは本当に一番やりたいことは音楽ですが、家庭の事情的に医師の道に進まざるを得ないという境遇において、心に空虚なものを抱えていそうです。
三者三葉の形で、彼らは「空」です。
しかし「空」であると同時に、彼らはもうすでに「色」を持っているのです。
トツ子はバンド活動と日々の祈りを通じて「自分」に向き合い続けました。
きみは同居の祖母に「無断で退学していたこと謝罪」への謝罪、ルイは母親に「本当は音楽をやりたいこと」を告白し、「私たちのライブを見てほしい」と訴えます。
それは、自らの内にある「空」に向き合ったことで、自分という「色」を獲得した結果なのではないでしょうか。
私はここに、「空即是色」を見出します。
■『きみの色』の色即是空
そして色即是空。
この言葉において「色」は本来モノ・カタチを指す言葉ですが、私はそのまま色彩(または光彩)の意味で用いたいと思います。
色の本質は「空」です。
「空」から私がイメージするカラーは、「白」です。
ところで、主要人物三人にはそれぞれ「色」が割り振られています。
トツ子は“赤”、きみは“青”、ルイは“緑”といった具合に。
言うまでもなく、それらの色の構成はRGB、「光の三原色」です。
「光の三原色」の理論によると、赤・青・緑という三つの色の光をさまざまな割合で混ぜれば、どんな色でも作り出せるとのことです。
それはたとえば、クライマックスのライブ演奏シーンを髣髴とさせます。
歌と楽器の演奏でプリズムのように美しい色を解き放ち、聴衆を魅了する三人。
これは、元々は空っぽ(白)だった彼らが、色を獲得するに至ったがゆえの成果です。
彼らの演奏は聴衆を熱狂させます。
私は、エンターテインメントの最たる効用は、一時的にせよ「イヤなことを全て忘れさせる」ことだと思っています。
頭が真っ白になるくらいに、目の前の出来事に感動するということ。
その熱狂は、「白熱」と言い替えてもいいでしょう。
RGBにおいての色の強さの最大値は「255」。
三色が「255」「255」「255」で重なったとき、出来上がる色は「白」です。
それはただの「何もない」という状態ではなく、白熱という熱狂を孕んだ「空」です。
「空即是色」で始まり、「色即是空」に終わる。
それが、『きみの色』という作品なのです。
■「all is colour within」
映画『きみの色』を見てからというもの、本作のサントラを毎日愛聴しております。
そしてまだまだ出てくる『CONTINUE』Vol. 84!(私は太田出版の回し者ではありません)
本稿の冒頭で提示した「対談」には、こんな続きがありました。
このサントラはシャレていて、劇中で使用された音楽について一曲目から「244, 233, 227」「247, 221, 111」「75, 128, 253」といった具合にRGBの数値が曲のタイトルになっています。
ラストシーンに流れる曲のタイトルは「255, 255, 255」。
三人の想いが最も高まる瞬間、世界は「白」という「空」に包まれ、この物語は幕を閉じます。
実に、「色即是空」といったところではないでしょうか。