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航西日記(17)

著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫

慶応三年二月二十一日(1867年3月26日)


晴。

ようやく海峡に入り、昼ごろ、スエズに着く。

土地は砂地で、草木がなく、人家が樹木を植えるには、他所から土を運んできて、植えてある。

水は、いたって悪い。

土民は、黒色で、頭に白布を巻き、仏国フランスのアルジェリア兵のような衣服を着ている。

士官は皆、赤のトルコ帽をかぶっている。

ここは、紅海こうかいの奥にある湾で、近来、地中海との通路が開けてから、あらたに出来た港なので、人家は、まだ、まばらで、他の港のように整ってはいない。

しかし、西紅海の行き詰まりであって、欧州人が、東洋に行くのに、喜望峰きぼうほうを回らずに済む、交通の要地であるので、どうしても通らねばならないのだから、貨物運輸、旅客乗り継ぎの要港として、だんだん土民が繁栄していくきざしがある。

ここから、アレキサンドリアまでの陸地が、西紅海と地中海との間を中断し、アフリカ大陸が、北のトルコに接している。

港は、遠浅とおあさで、船を一里半余も沖に停泊させている。

砂漠の水が流れこむので、砂の色が、水の色を変えて見える。

水脈みおが屈曲して、航路を形づくっている。

土砂が船脚ふなあしさまたげて不便なので、目下もっか、蒸気機械で港をさらっている。

しばらくして、小汽船で上陸する。

この間、二里ばかり。

波止場はとばより、左手の海岸に臨んだ英国イギリスのホテルに投じ、昼食し、汽車発車の時間を待つ。

このホテルは、英国人の経営で、本港第一である。

庭上に、草木を多く植え、待合客まちあいきゃくの気分をなぐさめている。

楼上から海を望むと、かなたに山々がつらなり、すこぶる景色がよい。

ただし、暑い土地柄なので、涼しいように設備されている。

汽車の駅までは、さほど遠くない。

近くの土民の家は、皆、ツバメの巣のように、土で作ってあり、荒れかたむいて、古風な面影おもかげを残している。

この地に鉄道をいたのは、英国通商会社の目論見で、東洋貿易の簡便かんべん自在じざいを得ようとして、当地の政府の許可を受け、年限を決め、費用を償還しょうかんしたのちは、地元の所有に移すという約束であるとのことである。

今は、まったく、エジプトの所有になったということである。

西紅海と地中海とは、アラビアとアフリカ州の地先じさきが交接するところで、百五、六十里ほどの陸路が、わずかに海路をざしている。

だから、西洋の軍艦、商船などが東洋に来舶らいはくするには、喜望峰を迂回うかいせねばならない。

その経費は莫大で、運送が、きわめて不便であるので、1865年ごろから、仏国の会社が、スエズから地中海までの掘割ほりわりをくわだて、大規模な土木工事を起こし、目下、進行中とのことである。

汽車の左方、はるかにテントなど多く張りならべ、もっこを運ぶ人夫にんぷらのうのが見える。

この竣功しゅんこうは、三、四年の予定で、成功の後は、東西洋間を直行の海路を開き、西洋人が、東洋の声息せいそくを通じ、商貨しょうかを運輸する便宜べんぎは、昔日せきじつに、幾倍いくばいするやもしれないという。

すべて西洋人が事業をおこすのは、ただに、一身一個のためにするのではなく、多くは、全国全州の大益たいえきをはかるものであり、その規模の遠大で、目標の宏壮こうそうなことは、かんずべきことである。

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