航西日記(4)
著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫
慶応三年正月十五日(1867年2月19日)
曇り。
暁より、揚子江に入る。
この川の河口は、ひじょうに広く、河水が洋々としていて、緑黄色に濁り、風や波は大洋と変わらない。
およそ四十里ほど、さかのぼって、左右に分かれ、右は揚子江本流で、左を呉淞江といい、我が国の淀川の倍ほどもあり、帆掛け船の清国式の船が、遠近に出没していた。
流れが分かれたところの向こう岸は、砲台の跡で、草木が生え茂って、古い土塁が残っているだけである。
清の道光二十二年(天保十三年、1842年)、アヘン戦争に、大臣の陳化成が戦死したのも、この近くだといわれる。
いながらにして、感慨の情に、たえなかった。
ますます、さかのぼると、両岸は、楊柳も春めいていて、ところどころに村落も見えて、風情がある。
ようやく、帆柱の影が、林のようになって、人家が立て込んできて、なおも進んで、午前十一時ごろ、停泊した。
しばらくして、清国人が、魚の目を、へさきに描いた、朱塗りの舟を漕いで来て、旅客に上陸を勧める。
その一隻を雇って、上海港に上陸した。
午後三時、同所の英国の旅舎に入り、英国人の案内で、公使(徳川昭武)の御供をして、川沿いに散歩した。
川岸には、西洋人の官舎がつらなり、その官邸には、各国の国旗を高くかかげ、それぞれ、便利の良い地を占めていた。
あいだに税関があって、江海北闕という看板をかけ、門は川に向かっており、波止場があって、上屋を設け、鉄道をしき、荷物の陸揚げに便利であった。
税務は、近年、西洋人を雇って、やらせるようになってから、みだりに徴税しそこなう事もなく、旧来の欠陥を正したので、歳入は倍加し、一年に五百万ドルにもなったという。
物産が繁殖した点では、東洋の天然の宝庫であって、西洋人が、しきりに居住する理由でもあろう。
河岸には、全てガス灯を設け、電線をはり、樹木が植えてあり、道路は平坦で、やや欧州風の一端を見る事ができる。