航西日記(16)
著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫
慶応三年二月八日(1867年3月13日)
晴。セイロンのホアント・ド・ガール(コロンボ)。
朝八時出港。
暑威は昨日より、いよいよ増し、めまいがするほどである。
午後一時、数頭の鮫が、洋中の波間におどるのを見た。
本草(博物書)によると、鮫は南海に産し、海亀に似て、足がなく尾があると書かれているが、そのとおりだ。
夕方の三時に、にわか雨があった。
しばらくのあいだに、海上に一団の黒雲が生じ、たちまちに空は暗くなり、突然に雲がさがって、波につながり、海水を巻き上げた。
陸上の「つむじ風」が巻き上がるのに似て、ちょうど竜が昇天するような勢いである。
俗に竜巻といって、みんな珍しい思いをした。
慶応三年二月十六日(1867年3月21日)
曇。朝六時、アデン着。
アラビアの南端にあって、紅海の入り口である。
北緯十二度四十六分で、土地は赤ちゃけた岩地で、山には草木がなく、平地には水気がなく、地味は痩せている。
人民は、アラビア人種で、インドに比べると、強壮であって、品格も一段と下がる。
英国の官吏が在留して管轄している。
港口に、二個の砲台がある。
欧州各国の領事も在留している。
この地は、開拓の利も産物の益もないが、東上西下の航海の便を開き、万里運輸の自在を得ているので、英国が力を尽くし、財を費やし、不毛の痩せ地にも国旗をかかげて管領してからというものは、東洋の商業を盛大にし、支那、インドの領地を支配するにいたった。
その規模の大きさを知ることができる。
上陸して、海岸にあるホテルに入ると、馬車、乗馬とも、ホテルの前に来て、乗ることをすすめる。
馬車を雇って、市中を見る。
海岸の細い道は、屈曲して山に沿い、半里ほど行ってから、ようやく石畳の坂道を登る。
城門が、山の腰あたりにあり、左右に石の城壁をつらねて、要所に大砲をそなえ、歩兵が守っている。
切り通しの上、十丈ばかりに橋を架け、要害の往来に供している。
道幅は、わずかに馬車が、すれちがえる程度である。
やや下ると、平坦な市街にいたる。
人家石室など、みな小さく古く、こわれて草の生えた家が過半であって、人煙は、はなはだ侘しいものだ。
欧州人の駐在官員の家は、みな海岸の山手にある。
市街を過ぎ、貯水場に行く。
この地は、水や泉にとぼしく、雨が少ないために、領内の飲用水を貯えておいて、分配している。
奇岩怪石の間に、深い谷を掘り、周囲を白堊(セメント)で塗り、青石を敷いてある。
そのそばに、石畳の道をめぐらし、石橋を架け、石の欄干をめぐらし、上には山が聳え、下には水が深く、茶亭花園も点在して、なかなか風致にとんだ仮山水になっている。
※仮山水・・・庭園内に築かれた、人工の山と泉のこと
池底に管を通じて平地まで導き、汲み取り場を設けてある。
豚皮で作った容器に汲み入れ、ラクダ、または、ロバにおわせて、数里も先に送り、各所に分配している。
土地が痩せ、飲水も自由でなく、生活が困難なので、どうしても勤勉でなければならない。
地味の肥えているか、痩せているかの違いは、民の苦楽の違いであることが、まざまざとわかる。
肥沃な土地に生まれて、遊惰安逸にすごし、こんな土地もあるということを知らずに済むのは、幸いというべきか、また不幸というべきか。
痩せた土地の民は、勤倹で剛健、事があれば、すぐに武器を取って起つ。
富国強兵の基礎である。
肥沃の民は、遊惰で柔弱で、戦場に立つことをきらう。
亡国の原因をなすものである。
土民は牧羊を生業とし、運搬には、主として、ラクダが使われている。
この地の産物は、駝鳥の羽や卵、豹の皮、木彫りの匙(スプーン)、檳榔の葉の団扇、石蚕などである。
※石蚕・・・いさご虫の幼虫。釣りの餌に使われる
旅客があると、持ってきて売りつける。
ただし、銭を乞うたり、ひどく値をむさぼったりする。
上陸する時は、用心する方がよい。
ここから、スエズまでの海上を紅海という。
北は、アラビアで、南は、アフリカである。
海上から、両岸が見えかくれする。
両地方とも、山には草木がなく、赤ちゃけた色が海面にうつり、船は航行しても、風を切るようでもなく、水は油のように静かで動かず、熱気が強く、しぜんに海面が赤く反射している。
紅海の名のとおりである。
とくに五、六月ごろは、暑さがひどく、病人などが、そのころに航海すると、必ず病状を悪くするという。
私が航行したのは、我が国の暦で、二月であり、またのちに、六月と九月にも通ったが、そのうち、六月の航海では、聞き及んだとおりの暑さであった。
疲労困憊、不眠が数夜に及んだ。
牛、羊も、終夜、あえいでやまず、欧州人は、この海上を鬼門関と呼んで恐れているが、それは誇大ではない。
夕方三時出港。
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