「私だけの先生」はいますか?
皆さんは、好きだった先生はいますか?
中でも、「みんなはそうでもなかったけど、私は好きだったな」という先生、いませんでしたか?
リーディング・ワークショップで紹介するために、中高生向けの本も読むようにしています。
この習慣のおかげで、自分が読んでこなかった名作に出会うこともしばしば(『西の魔女が死んだ』『博士の愛した数式』など)。
中でも、先日読み終えた『先生はえらい』。
この本が「学ぶってどういうこと?」「先生って何?」という問いに対して、著者が脱線しながらも本質的な考えを述べています。
「小説は一通り読める」というレベルに達した生徒には、薦められる本だと思っています。
誤解が学びの出発点である
個人的に「なるほど!」と思ったのは、「学ぶこと」とは「誤答者としての独創性」である、ということ。
教師が1人、生徒が30人いるとして、教師が同じことを教えたとしても、「生徒は一人一人まったく違ったことを学んだ」という状態。
国語なんてその最たるものです。
先日、教科書教材の『坊っちゃん』を終えました。
読んで生徒が感じることも、千差万別です。
数学だって、理科だって、同じ授業を受けたとしても、答えに向かう考え方は一人一人異なっているはずです。
「学ぶ」という行為は、考えてみれば勝手なことです。
勝手に見つけて、勝手に詳しくなって、勝手に人に伝えたくなる。
本来、自分の内側から湧き上がってくるような自然な行為なんだということを、改めて感じました。
漱石的「先生」としての条件
他にも興味深かったのが、「先生」の典型例として、 漱石の『こころ』と『三四郎』が例示されているところ(作者の夏目漱石自身も教師でした)。
そこでの「先生」の条件が興味深かったので、以下に引用します。
高校のときの国語の先生がまさにそうでした。
教育実習で母校に行き、『伊勢物語』の『筒井筒』を授業で扱いました。
実習終了後の飲み会で、その先生がこう言っていました。
そう熱く語る姿を見て、高校時代、その先生の授業を受けている自分を思い出しました。
「普段はけだるそうなのに、この人は『文学が何たるか』を知っているんだ!」と思い、尊敬したものです(今もしています!)。
「この魅力が分かるのは私だけなんだ」
よく分からないものに、自分勝手な魅力を発見して勝手についていくこと。
当たり前ですが、学びは一人一人の「ずれ」から始まるんだなあ、と思いました。
(そうすると、ますます「みんな一緒に、同じ学びを、同じペースで」が異常だということに気づかされます!)
当然、「先生!」と慕いたくなる人は人それぞれです。
しかし、多くの人から「先生!」と呼ばれる人には、本質的な共通点があります。
それは、「いかに正しく誤解を生みだすか」ということ。
そういうメッセージを受け取りました。
誤解する自由、誤読する自由。
そういう機会を担保する授業を、自分もつくっていきたいと思います。
ちなみに、この本の最後に、「え、ここまで読んだけれど、ウチダが何を言いたいのか、わからない?」という一文があります。
これもユーモアが効いていますね。
私も10年後、「よく分からないおじさん」になれるといいな。(笑)
前回の記事もよろしければ。
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