ニギハヤヒの伝承地を訪ねる⑨ 伊香色雄命と肩野物部氏
『新撰姓氏録』記載の物部氏関連氏族は約100氏族。その半数が祖神とする饒速日命六世孫 伊香色雄命。
今回はその伊香色雄命ゆかりの地と肩野物部氏について考えます。
前回の石上神宮の話しの続きですので、よろしければそちらもご覧ください。
伊香色雄命の邸宅跡
「ひらかたパーク」に隣接する大阪府枚方市伊加賀町。その高台にある宮山という場所は、かつて伊香色雄命の邸宅と伝わる意賀美神社がありました。
明治42年、意賀美神社(伊加賀村と泥町村の鎮守)は日吉神社と須賀神社と合祀され、境内が狭い為、万年寺山の須賀神社跡に遷座されました。
肩野物部氏
北河内一帯は、かつて肩野物部氏が支配する土地でした。その肩野物部氏の祖とされるのは、天野川流域を開拓した伊香色雄命の子 多弁宿禰命だといわれています。
肩野物部氏は大阪府交野市森を本拠とし、京阪電鉄交野線河内森駅の東に位置する森遺跡は弥生時代終末期から古墳時代にかけて規模を拡大します。また、森古墳群は肩野物部の王墓と言われ、森1号墳(雷塚)は全長106m箸墓古墳と同形の前方後円墳で古墳時代前期(4世紀)築造のものです。
肩野物部氏が遠祖 饒速日命を祀ったのが磐船神社。
↑の記事でもふれましたが、当地は575年に私市部となり、さらには丁未の乱で敗れた物部宗家が滅び、肩野物部氏も衰退します。祖神 饒速日命を祀ることが憚られる中、磐船神社を総社とする四村の人々はそれぞれの村で名前を変えひっそりと護守したとされます。
時は流れ、平安時代に交野の地は宮廷貴族の遊猟地となります。またその頃は住吉信仰が盛んで、天磐船を伝承とする〝交野の神〟は、饒速日命から 住吉神(表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后)にかわって今日に至るとのことです。
「住吉大社の津守氏が饒速日命の子孫であったことが関係している」という説もあるようです。津守氏は尾張氏や海部氏同様天火明命を遠祖とする氏族ですので、『先代旧事本紀』に記される天火明命と饒速日命が同一神であることを前提とすればという考えですね。
元は饒速日命を祀っていた交野市の神社
前述の通り現在は住吉神が祀られています。
天田神社 (私市)
住吉神社 (私部)
郡津神社 (郡津)
星田神社 (星田)
話しを伊香色雄命に戻します。
交野市を含む 北河内(大阪府北西部)一帯は伊香色雄命や肩野物部氏の伝承が多くありましたが、淀川の西岸、摂津国嶋下郡(茨木市)にも伝承地がありました。
新屋坐天照御魂神社(西福井)
第10代崇神天皇の御代、天照御魂大神がこの地(日降ケ丘)に降臨され、崇神天皇7年9月物部氏の祖 伊香色雄命を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、しめ縄を引いて奉斎したのが創祀とされています(神社社伝)
『日本書紀』は崇神天皇7年8月に伊香色雄命を神班物者(神に捧げる物を割当てる人)にしたとありますので、そのすぐあとに当地を訪れたことになりますね。
天照御魂大神
ご祭神の天照御魂大神ですが、神社では「またの名を 天照国照天彦火明大神、饒速日大神」としています。つまり天火明命と言い、饒速日命とも言うということですので、二柱は同じ神と考えられているようです。
『古事記』は、天火明命を天孫 瓊瓊杵尊の兄と記します。『日本書紀』本文では、瓊瓊杵尊の子と記されています(一書第6と8では兄)。『記紀』に饒速日命の出自に関する記述はありません。『日本書紀』が天磐船で天降った者と記すのみです。
ではなぜ同一神と言われるかと言うと、『先代旧事本紀』に記されるからです。また、その記述をベースとした神社伝承、或いは系図(海部氏勘注系図など)に記されている事が根拠となっているようです。
『先代旧事本紀』に記される二柱の別称が、天火明命が、天照国照彦火明尊。饒速日命が、天照国照彦火明櫛玉饒速日命で、天照御魂神がこの別称からきた神であることは推察できますが、物部氏、穂積氏、采女氏などの遠祖饒速日命と、尾張氏、海部氏の始祖天火明命は、それぞれの氏族でそれぞれの名で祀られているにも関わらず、あえて二柱を結びつけるために創造されたのが天照御魂神という神ではないかと思えます。
おそらくは、丁未の乱以降、饒速日命を祀ることが憚られた時代に、交野では交野神、広瀬大社では櫛玉命など饒速日命の名前を変えて祀る所もあれば、天火明命と同一神として天照御魂神を創造して祀ったのが始まりではないかと。。
近畿地方には「天照御魂神社」と冠する神社、或いは天照御魂神を祭神とする神社が他に7社ほどありますのでもう少し調べてから改めて書きます。