ニギハヤヒの伝承地を訪ねる⑥ 水神と風神と、妄想話しと
今回はご祭神として祀られている広瀬大社を訪れました。
主祭神 若宇加能売命
相殿に 櫛玉命(饒速日命)
穂雷命(カグツチ)
社家の樋口氏が物部氏の末裔ということで相殿に櫛玉命(饒速日命)が祀られています。社家邸宅内にも境外末社 饒速日命社があるそうです。
丁未の乱で蘇我馬子・聖徳太子に敗れた物部氏は、祖神 櫛玉饒速日命を祀るのに、饒速日命の名を消し尊称だけにして櫛玉命として祀ったと言われています。
HPと違って境内由緒書きには櫛玉比売命となっています。櫛玉比売とは饒速日命の妻 御炊屋媛のことでしょうか?
天武・持統天皇が崇敬した五穀豊穣の守護神
『日本書紀』天武・持統天皇の記述で、水の神 広瀬大忌神(広瀬大社)と風の神 龍田|風神(龍田大社)を二社一対で祭ったことがたびたび記されます。五穀豊穣の守護神として当時最も崇敬される二神であったと思われます。
現在でも二社参りの信仰が残っているという事で、龍田大社もお参りしました。
今回は饒速日命に関してこれという伝承はありませんでしたが、丁未の乱と言えば、ちょっと気になることがあります。
地図をみてみましょう
こうして見ると、生駒山地東側一帯には饒速日命の伝承地が点在しています。(マークはしていませんが)西側の旧河内国は物部氏の本貫地で、物部守屋伝承地以外にも物部系氏族に関する神社などが数多くあります。
以下妄想です
ふと思った事を書きます(裏付けはありません)。
蘇我馬子・聖徳太子VS物部守屋の戦い丁未の乱で守屋は討ち取られます。その領地は両分されて、半分は蘇我馬子、半分は四天王寺へ寄進されました。そして守屋の子孫は四天王寺の奴婢にされたとあります(『四天王寺御手印縁起』)
さて、聖徳太子と言えば四天王寺と、斑鳩宮、法隆寺が有名ですが、地図をご覧ください。法隆寺(斑鳩)は今回の広瀬大社の北に位置します。丁未の乱が587年。斑鳩宮は601年に造営を始めて、605年に完成、太子はそこに移り住みます。法隆寺完成は607年。移り住んだわけですから、それ以前は聖徳太子の領地では無かったかも知れません。
じゃ、誰の?と考えた時、地名の「いかるが」が思い浮かびます。饒速日命が天磐船で天降った哮峯。現在の漢字の読み方では「たけるがみね」ですが、「いかるがのみね」と読む文献も多くあります。饒速日命の故事が斑鳩宮の由来となった可能性は考えられないでしょうか。
生駒山地東側南北に連なる饒速日命の伝承地。今回の広瀬大社の社家が物部氏末裔ということ。現在の国道25号は大坂越えで古代の主要な幹線道路の一つ。その西側は物部守屋の本貫地。それらを線でつなげば、斑鳩宮・法隆寺の土地も元は物部氏の支配地だったとしても違和感は無く、丁未の乱で物部氏から奪ったのでは?と妄想したわけです。
これには似たような例があります。滋賀県栗東町にある蜂屋遺跡。当地は古代栗太郡物部郷と呼ばれる物部氏の領地でした。しかし、寺院の遺構から法隆寺のものと同じ木型でつくられた軒瓦が見つかりました。なぜ物部氏の領地に法隆寺の瓦が。年代的に考えて、これもおそらく丁未の乱で物部郷が聖徳太子の所領になったものではないかと考えられています。
「和を以て貴しとなす」聖人には似つかわしくない話しでしたね(^_^;)
まぁ、頭の柔軟体操の類の妄想ですので読み流してくださいませm(_ _)m
ランチタイム
龍田大社近くに評判のパン屋さんがあると聞いて行ってみました。昼前なのにほとんど売り切れていましたが、運良く残り僅かのパンをゲット。美味しかったです✨