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古代鴨族の地を巡る

欠史八代 第3話 第二代 綏靖すいぜい天皇 後編


綏靖天皇の皇后や大臣については前編をご覧ください。


 

鴨と称された地域


 高鴨たかかも神社(上鴨社)由緒によると、「当地は鴨の一族の発祥の地で、弥生中期 鴨族の一部はこの丘陵から大和平野に移り、葛城川の岸辺に鴨都波かもつば神社(下鴨社)をまつって水稲生活を始め、また、東持田の地に移った一派も葛木御歳かつらぎみとし神社(中鴨社)を中心に水稲耕作に入った」とあります。鴨三社と鴨山口神社を囲ったのが下の白線で囲ったエリアで、おおよそ古代 鴨族が暮らした地域と考えられます。第二代 綏靖すいぜい天皇の宮はそうした場所にありました(孝昭・孝安天皇の宮も)。エリア内には、大和の代表的な弥生遺跡の一つ鴨都波かもつば遺跡や、全国で11面しか出土していない多鈕細文鏡たちゅうさいもんきょうと銅鐸が共伴して見つかった名柄ながら遺跡、京奈和自動車道建設工事にともなって紀元前5世紀の水耕稲作跡が発見された秋津・中西遺跡などがあります。

 左:金剛山  右:大和葛城山 (金剛山は役行者が転法輪寺を建立する以前は高尾張たかおばる山と呼ばれていました)
初代神武天皇橿原宮のある畝傍山と、第二代綏靖天皇の宮はずいぶん離れているようなイメージですが、高台からは畝傍山が肉眼で確認出来る距離です。狼煙のろしを上げればすぐ異変を知らせる事も出来そうですね。
初期天皇の宮
名柄遺跡出土した多鈕細文鏡たちゅうさいもんきょう(重文)と流水文銅鐸 東京国立博物館蔵
秋津・中西遺跡 紀元前5世紀の水田跡 橿原考古学研究者所博物館展示


高鴨たかかも神社

高鴨神社 『延喜式』名神大社。延喜式記載の社号は、「高鴨阿治須岐詫彦根命たかかもあぢすきたかひこねのみこと神社(四座)」。現在の御祭神は、阿遅志貴高日子根命あぢしきたかひこねのみこと迦毛之大御神かものおおみかみ)、事代主命、阿治須岐速雄命、下照姫・天稚彦命ですが、『特選神名牒』では、阿治須岐高彦根命と母神 多紀理比売命が記され、他二神は不明とされています。鴨族発祥の地。鴨はカモ≒カミ神が語源とも。全国の鴨・加茂社の元宮と称します。

 『出雲国造神賀詞いずものくにのみやつこのかんよごと』に「己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ・・」とあります。大己貴命(大国主)の御子 阿遅須伎高孫根命あぢすきたかひこねのみこと御魂みたまを葛木の鴨の神奈備かんなびに鎮め皇孫の守神としているという内容です。詳しくは次回記事で書きます。

高鴨神社
手水舎と池 
ご神木の杉
二の鳥居と拝殿 
拝殿横から境内の池を眺める。
由緒書
御朱印



風の森神社(志那都比古神社)

高鴨神社と一対と言われる小さな祠。

葛城古道 風の森峠 手前金剛山 奥 大和葛城山
案内板
風の森神社(志那都比古神社)    高鴨神社から東南へ15分ほど歩くとあります(道は狭いですが車でも行けます)。
御所ごせ市観光案内図



葛木御歳かつらぎみとし神社(中鴨社)

『延喜式』名神大社。主祭神は 御歳神みとしのかみ(系譜/須佐之男命−大年神−御歳神 スサノオの孫神とされます) と高照姫命たかてるひめのみこと

「とし」は穀物。特に稲またはその実りを意味する古語。五穀豊穣・稲の守り神。年を司る年神さま。 〝お年玉〟由来の神様でもあります。詳しくは神社ホームページやYouTubeチャンネルで確認してください。

一之鳥居と大和葛城山(左は金剛山)
拝殿
本殿
由緒書
御朱印



鴨都波かもつば神社(下鴨社)

 『延喜式』名神大社。古い社号は「鴨都味波八重事代主命かものみわやへことしろぬしのみこと神社(二座)」。大物主(大国主)の御子神 事代主神をまつることから、「鴨の三輪・・・・大神おおみわ神社の別宮とも称されています。

 御祭神は積羽八重事代主神つわやえことしろぬしのみこと下照姫命したてるひめのみことですが、『特選神名牒』は、「日本書紀で事代主神は三島溝橛耳みしまのみぞくいみみの娘 玉櫛媛たまくしひめと結ばれているので、下照姫ではなく本当は玉櫛媛ではないのか?」と記されています(意訳しています)。

 下照姫命は高鴨神社の祭神阿遅鉏高日子根神の妹神で、葛木御歳神社に祀られる高照姫命は事代主神の妹神ですから、現在の御祭神は三社の繋がりを優先したのではないかと思われます。

鳥居
鳥居から大和葛城山を望む
拝殿
本殿
樹齢400年 御神木のいちい樫
由緒書
御朱印


鴨都波遺跡かもつばいせき

 神社周辺には大和の代表的な弥生遺跡の一つ鴨都波かもつば遺跡が広がります。ここでは、「紀伊型甕きいがたかめ」が出土し、紀伊との盛んな交流が認められる他に、北摂ほくせつ河内かわち・瀬戸内・伊勢なとの土器も出土していて、他地域から人の往来があったことがわかります。瀬戸内の吉備は神武天皇が三年かけて東征準備をした地。そして北摂は綏靖すいぜい天皇皇后の 五十鈴依媛命いすずよりひめのみことと、姉であり神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことの母方の里(母は三島溝橛耳命みしまみぞくいみみのみことの娘 玉櫛媛たまくしひめ)。これは妄想がふくらみます(笑)。

『葛城の弥生時代』より拝借しました



御陵

 
宮内庁治定の御陵は神武天皇陵の北側、橿原市四条町の桃花鳥田丘上陵つきだのおかのえのみささぎ。「桃花鳥」を昔は〝つき〟と読んだのでしょうか。 今は〝トキ〟ですね。

桃花鳥田丘上陵つきだのおかのえのみささぎは、『延喜式』「諸陵式」には守戸5軒が管理する107m✕107mの墓地とみえます。畝傍山うねびやまには初代神武天皇から第四代懿徳天皇までの陵墓が記されますが、中世になると祭祀が途絶え、墓は荒れ、管理者も離散してしまって所在がわからなくなりました。

 中世の荒廃がどれだけのものであったかは、歴史家 故 田中吉永氏の『大和志』寄稿文から引用させていただくと、「徳川三代将軍家光の時、奈良奉行は大和に陵一つもなしと報告した位で、延宝7年(1679)林宗甫の著『和州旧跡幽考』にも、「高市郡に多く陵待るよしふるき文共に見え待れども今打見渡しに見えず」とあり、勿論神武陵地も忘れられて心にとめる者がいなかったものであろう」と記されます。

 しかし、その後「元禄の修陵」「安政の修陵」「文久の修陵」が行われて現在に至るカタチが整えられました。現陵の塚山は一度は神武天皇陵に決定されましたが、のちに入れ替わって「文久の修陵」で綏靖天皇陵に治定されました。


神武天皇陵の記事は、


最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 



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