四道将軍と稲荷山鉄剣で思うこと
大和朝廷の全国統一 第三話 第十代 崇神天皇 ③
四道将軍、『古事記』と『日本書紀』の違い
『日本書紀』崇神天皇紀には、北陸・東海・西道・丹波の四つの地域に「四道将軍」を派遣したことが記されます。一方『古事記』は少し違っていて、整理すると、
『日本書紀』が記す四道将軍
北陸道 大彦命
東海道 武淳川別
西道道 吉備津彦
丹波 丹波道主命
『古事記』は三道
高志道 大毗古命
東の十二道 武沼河別命
旦波 日子坐王
※『古事記』は、吉備への派遣は第七代孝霊天皇の代のこととして、大吉備津日子命と若建吉備日子を派遣したとされます。
三代前の吉備津彦が崇神天皇の御代に活躍するのはさすがに無理がありますので、この件に関しては『古事記』の記述のほうがしっくりくるかもしれません。欠史八代の事績を記さない都合で、『日本書紀』は2〜3代前のことを崇神天皇紀にまとめて記したのかもしれません。
武埴安彦の謀反
大彦命が出陣してまもなく童女が不吉な歌を歌うのを聞き、とって返してそのことを伝えると、第八代孝元天皇の皇子 武埴安彦が謀反をおこそうとしていることがわかりました。
そうこうしているうちに、武埴安彦が山背(京都方面)から、妻の吾田媛は大坂(香芝市)から攻め込んできます。そこで吾田媛の軍へは五十狭芹彦命(吉備津彦)を派遣して、大坂で遮り敵を全滅させました。
大彦命と和珥氏の彦国葺の軍は、奈良山丘陵を越え現在の京都府相楽郡精華町で川をはさんで武埴安彦軍と対峙し戦いを挑みます。それで時の人はその川のことを「挑河」といった。日本書紀編纂当時「泉河」というのは、それが訛ったもの、と記されます。現在の「木津川」です。
戦いは彦国葺の放った矢が命中し武埴安彦は討ち取られます。大将を失った武埴安彦軍は半数以上がそこで斬られ屍体で溢れたそうです。そこでそこを名付けて「羽振苑」と言い、現在は「祝園」という地名になっています。
そのあとも大阪府枚方市あたりまで敵軍残兵を執拗に追いかけたようです。もう敵軍はビビって脱糞してしまい、褌から屎が落ちたのでそこを「屎褌」といったと記されます。日本書紀編纂当時それが訛って「樟葉」といったそうで、現在も「枚方市樟葉」という地名です。また、関連があるかどうかはわかりませんが、樟葉の南、京阪電鉄枚方公園駅近くには、物部氏の伊香色雄命の邸宅跡が伝わります。伊香色雄命と大彦命の関係は上記系図でご確認ください。
この逸話は皇族が謀反をおこした最初の事件として『日本書紀』『古事記』共に記します。
祝園神社
延喜式内社。武埴安彦の亡魂が鬼神となって柞ノ森にとどまり、人々を悩ませていた。これを鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたそうです。
「柞(ははそ)」とは、コナラやクヌギの総称。ドングリの木ですね。
涌出宮
正式には、「和伎座天乃夫岐売神社」。「涌出宮」の名は、一夜にして森が湧き出し神域と化したことに由来するそうです。こちらでも「居篭祭」が行われます。どちらも武埴安彦の霊を鎮める伝説があるのは同じですが、川をはさんで別々に行われるのはなんでだろうと思いますよね。一説には武埴安彦は戦いに敗れ首を切られ、首は祝園に飛び、胴体がこちらに残ったからだと言われています。
四道将軍それぞれに伝承地があり、たくさんありすぎてそれを紹介していると話が前へ進まないので、また別の機会に個別に記事にすることにします。この「大和朝廷の全国統一」シリーズとして、四道将軍関連でどうしてもふれておきたいのが、稲荷山古墳出土の鉄剣の話です。
稲荷山鉄剣について
1978年(出土は1968年)に埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣の保存作業中に、金象嵌文字(金属などの素材に薄い溝を彫り、その溝に金箔をはめ込む技法)が発見されました。58センチの刀身に表57文字、裏58文字、合計115文字が刻まれています。
この鉄剣に金象嵌文字を刻ませた。乎獲居臣の始祖の意富比垝こそが四道将軍の一人、大彦命である、とする説があります(私は有力な説だと思っています)。
稲荷山鉄剣で思うこと
この鉄剣は、ある意味戦後の歴史観に大きなショックを与えました。戦後は『古事記』や『日本書紀』に記される内容というのは、「大和朝廷の政治的権力を正当化するために創作されたもの」であるという考え方が主流です。『日本書紀』は大彦命は第八代孝元天皇の皇子で、もし大彦命の実在が証明されれば、孝元天皇や大彦命の兄である開化天皇など、いわゆる欠史八代天皇の存在や、[記紀]に記される内容の信憑性もきわめて高くなってくるわけです。
しかし、この説に対する異論や批判も当然あります。「意富比垝」と「大彦命」は別人であるとか、獲加多支鹵大王と雄略天皇とは別人であると言ったものや、「刻まれた金象嵌文字の意富比垝を、いわゆる四道将軍の大彦命と関連づける説があるが、しかしそれによって、四道将軍をただちに史実とみなすことはできない。四道将軍派遣説話の文献批判が必要である」などです。
私も意富比垝が大彦命で四道将軍が史実だと証明できるわけではありません。しかし、戦後の歴史観を刷り込まれて思考停止している方々に違った見方もあるよと伝えたくて、あるいは私の記事を評価してくださる方が知らない人に伝える時のネタを提供するために、このnote記事を書いているので、[記紀]の否定的な見方に対しては折にふれて反論していくことになります。
戦後の歴史観は他国の干渉や思想的な背景によってねじ曲げられていると思っています。よく「戦前は云々」と言いますが、戦後も逆方向に曲げられています。歴史を学びそれを活かす目的はそれぞれですが、「国の成り立ちを知りたい」と思う時に、当然その時代に思いを巡らせます。例えば[記紀]が編纂された8世紀、時の都であった平城宮とはどういうところであったか? いろいろ出土する木簡などからわかることがあります。
平城宮には70ほどの役所があっておおよそ1万人の役人が勤めていた(非常勤含む)と考えられています。地方から赴任している諸々の者も含めるとさらに1万人ほど、最大で約2万人の人間が仕事をしていたようです(数値は奈良時代後期)。
役人の数は意外と多いですよね。一方で、当たり前ですけどスマホやパソコン、電話もコンビニもありません。エアコンもありません。トイレにウォシュレットなんかありません。そもそも電気がありません。ご飯はどうしたかというと、これは給食があったようです。
少し想像できましたか? もう一つ重要なことは、この時代の思想や価値観です。民主主義や社会主義、共産主義といった思想なんてありません。もちろんLGBTやSDGsなどといった主張もありません。いまリベラルを自認する方々が主張する価値観はこの時代には存在しません。
中国は300年近くの分裂の時代を経て唐が再統一。朝鮮半島も新羅が統一し、そうした近隣諸国の情勢の中で、日本も律令国家として様々な制度・インフラを整備していかなければならない時代でした。国史の編纂もそうした国家事業の一環ですすめられたものです。当時は天皇を中心とした律令国家の確立を目指していたわけですから、「大和朝廷の政治的権力を正当化するため」というのも、ある意味当然のことで、その言葉をもって書かれている内容を否定すべきものではありません。
「大和朝廷の政治的権力を正当化するため」はあるとしても、後に続く「正当化するために創作された」という言葉には違和感を持ちます。それこそ曲げようとする価値観のプロパガンダに他ならないのではないかと思います。[記紀]記述を否定するにも物証は乏しく、むしろ稲荷山鉄剣もそうですけど、戦後各地の遺跡から出土する遺物などからは、[記紀]の記述に大筋で合致するものが多いように私は思います。例えば神武天皇と崇神天皇を同一人物とする説があります。その場合「神武東征」は崇神天皇の前半生のことと言いますが、崇神天皇をもし邪馬台国の時代とするなら『日本書紀』に記されることが起こり得ないことは証明出来ます。
「纏向遺跡」も邪馬台国ではなく、垂仁・景行天皇の宮があったと記紀は記します。さらに仁徳天皇の「難波の堀江」などは実際に築造されたことがわかっていますが、それでも仁徳天皇とは認めません。「大王」です。「大王」っていったい誰なんだと突っ込みたくなります。
世界各国のどの国史でも潤色された部分はあるでしょうし、重箱の隅をつつくように探したら、史実でないことも含まれるかもしれません。中国の史書だってそうですよね? これほどまで自国の国史を軽視するのは日本だけではないでしょうか?
少し感情的になりました。長くなりましたし、この話はこれくらいにします。
次回は崇神天皇紀のまとめをします。最後までお読みいただきありがとうございました。