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大和笠縫邑伝承地

倭姫命物語 第一話 笠縫邑

 『日本書紀』崇神天皇6年条には、「神威を畏れ、天照大神あまてらすおおみかみを皇女豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことに託して大和の笠縫邑かさぬいのむらに祀った」とあります。

次に垂仁天皇の時代になり、天照大神の御杖代みつえしろは豊鍬入姫命から倭姫命やまとひめのみことへ交代します。記述によれば、倭姫命は天照大神を鎮め祀る地を求めて、宇陀、近江国、美濃を巡って伊勢に至ったとされます。


 『古事記』には具体的な記述はありません。『日本書紀』もこれ以上のことは記していません。各地に豊鍬入姫命や倭姫命の伝承が残るのは、鎌倉時代中期に編纂された伊勢神道の経典である神道五部書の一つ倭姫命世紀やまとひめのみことせいきの影響が大きいと考えられます。

『日本書紀』は六国史の第一の歴史書です。一方、『倭姫命世紀』は外宮げぐう中心の教学である伊勢神道の根本経典の一つです。この記事では歴史目線で書きます。もし信仰上で不適切な表現があってもお許しください。この点をご了承の上で、このシリーズの記事をお読みいただければと思います。なお、シリーズタイトルを「倭姫命物語」としていますが、最初の頃は豊鍬入姫命の話です。


大和笠縫邑伝承地


笠縫邑かさぬいのむらに関しては、比定地が十カ所ほどあり、実際の場所は不明ですが、いくつかの候補地を紹介します。

笠縫神社

磯城郡田原本町に泰楽寺じんらくじという寺があります。寺伝によれば、647年百済王から贈られ、聖徳太子から秦河勝はたのかわかつに下賜された観音を安置したことに始まるようです。

周辺は「秦氏」の居住地(秦庄)であったとされ、秦楽寺の「楽」は神楽や猿楽の「楽」で、「秦の楽人」の意味だといいます。門前には秦河勝の末裔を称する金春家の屋敷があったそうです。

特徴的な中国風土蔵門
本堂 本尊は千手観音。右に聖徳太子像、左に秦河勝像がまつられる。
空海造ったとされる梵字の「阿」形をした池
境内南東には春日神社の社号標の立つ鳥居(写真奥)があり、入ると春日神社(手間赤い鳥居)と並んで笠縫神社があります。
笠縫神社

 秦河勝は聖徳太子の時代の人物ですので、私の考える崇神天皇の時代からすると350〜400年あとの話。応神天皇の御代に渡来し、秦氏のルーツと言われる弓月君ゆづきのきみでも150年ほどあとのことですから、笠縫邑と渡来人・秦氏とは関係がありません。元々伝承のあった場所に居住したか、居住してから後付けしたか、です。


秦楽寺は近鉄橿原線笠縫駅から北西方向に歩いて5分ほどの距離です


 また、南西に20分ほど歩くと、以前記事にしたおお神社があります。多神社も笠縫邑の候補地の一つですが、今回は省略します。興味のある方は関連する以前の記事をご覧ください。


笠山荒かさやまこう神社

 日本三大荒神こうじんの一つ。中・近世は高僧、修験者、陰陽師などの修行の場であったと言います。明治の神仏分離で笠山の麓の竹林寺から山頂に遷座し「笠山荒神社」となりました。

 後述する檜原神社から県道大和高田桜井線を車で走ってきました。三輪山の北東の山中にあります。桜井市笠地区は国の農地開発事業でそばの栽培が行われ、神社の前の「笠そば処」でいただくこともできます。


笠そば処

 修験道などの修行の場には良さげですけど、崇神天皇の宮から度々通うことは出来ないと思うし、豊鍬入姫がここに留まって祀っていたとするなら、山の中でさぞ心細かっただろうなぁーと想像しました。


小夫おぶ天神社

 笠山荒神社から車で10分ほどでしょうか。桜井市小夫おぶ集落へ向いました。こちらは笠縫邑の伝承地でもありますが、天武天皇の皇女、大伯皇女おおくのひめみこが斎王として約一年潔斎のためにこの地に滞在したと伝わる場所です。(近年、斎宮のあった場所は脇本遺跡ではないかとも言われています。)

拝殿から眺めた景色



檜原ひばら神社

 今回最後に紹介するのは檜原神社です。大神神社の摂社で、山辺道にありよく知らる神社ですね。本社同様、本殿は無く三ツ鳥居(三輪鳥居)を通して御神座を拝します。

三ツ鳥居向かって左に豊鍬入姫命を祀る社
鳥居越しに見る二上山の夕日が人気。



その他、前回記事で紹介した志貴御縣坐しきみあがたにます神社や、以前別の記事で書いた飛鳥坐あすかにいます神社なども候補地と言われています。


まとめ

 「笠縫邑」は、やはり檜原神社が一番それらしく思えますか? 天照大神が太陽神で、陽の昇る三輪山、そして二上山へ沈む夕日・・、由緒もロケーションも申し分ありませんね。ただ私は一つ引っかかることがあります。

それは『日本書紀』の記述です。疫病を収めるために崇神天皇がとった行動は、最初に豊鍬入姫命に託して天照大神を笠縫邑に祀ったわけです。ところがそれでも疫病は収まらず、結局、大物主神を大田田根子を神主として祀らせてようやく収まったと記されます。

言い換えれば、天照大神を笠縫邑に移し祀ったが、疫病を収めることはできなかった。神の 威勢 を得ることはできなかった。つまりそこは本来天照大神の鎮まるところではなかったと考えられるわけです。しかもその三輪山は大物主神が主であるという。とすると、三輪山の麓の檜原神社の地では天照大神はさぞかし居心地が悪かっただろうなと思うのです。


  『日本書紀』は、次の垂仁天皇紀で豊鍬入姫命に代わって倭姫命が天照大神の御杖代となって、各地を訪ね伊勢に鎮まることを記します。


 また、一説によれば倭大神やまとのおおかみが神がかって言うには、「伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみことが、天照大神あまてらすおおみかみ高天原たかまのはらを治め、代々の天皇は葦原中国あしはらのなかつくにの天神地祇を治め、私は大地官おおつちつかさ(地主神、すなわち国魂)を治めよと仰せられた。崇神天皇は天神地祇はお祭りになったが、詳しくはまだその根源を探らず、枝葉のことに終始した為に短命だった。貴方(垂仁天皇)は先帝の及ばなかったことを悔いて私を祭れば寿命は長くなるだろう」と記されます。

これは直接的には倭大國魂神やまとのおおくにたまのかみに関する記述ですが、伊勢の祭祀の起源を示す段にあり、天照大神が本来鎮まるべき場所についても、「根源を知らなかった」という考えが当てはまるようにも思います。


 「本来天照大神の鎮まるところではなかった」という言い方をすると、これからシリーズで紹介していく「元伊勢」各地の話が元も子もなくなってしまいますが、豊鍬入姫や倭姫命を御杖代として天照大神がなぜその土地を訪れ、その地で天照大神は尊崇され祀り継がれているのかについて引き続き探っていきたいと思っています。


最後までお読みいただきありがとうございました。


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