綏靖天皇は、朝に夕に人を7人食らいなさったのか?
欠史八代 第2話 第二代 綏靖天皇 前編
タイトルの件は、南北朝時代に成立した安居院唱導教団の『神道集』「熊野権現の事」に記される内容です。文献のタイトルから古来の神道に関する内容かと思われがちですが、実際には神仏習合の本地垂迹思想、仏家による神道説話です。儒家神道や国学の勃興により、江戸時代には荒唐無稽とも言われましたが、以下当該部分の訳文を引用します。
中世には地方の村々を訪れ熊野比丘尼や御師と呼ばれる人々が布教活動を行っていました。熊野権現の事を説く内容で、猟師が八咫烏に導かれて行くと、熊野三所の神が姿を現し云々という話しの後にこの食人伝説が語られます。
神武東征譚。熊野で神武天皇の窮地を救ったのが熊野の神。東征に従ってきた長男 手研耳命を殺して即位したのが綏靖天皇。綏靖天皇を卑しめるのはそうしたことに関係するのでしょうか?
或いは、『神道集』より少し前に発刊された北畠親房の『神皇正統紀』。綏靖天皇の段に、「末代トナリテ、人不正ニナリシユヘニ、其道ヲオサメテ儒教ヲタテラルルナリ」と記されているのに対して儒教を卑しめる狙いがあったのでしょうか?
まぁ、本当のところはよくわかりませんが、史実とは言い難い物語なので、綏靖天皇が人を食っていたという話しを目にしたら、「あぁ、『神道集』のあれね」と思いだしてください。いつの時代にも「人を食ったような人」ならいますけどね。
綏靖天皇を400字で語る
神武天皇が亡くなると跡目争いがおきます。日向から東征に従ってきた長男の手研耳命が異母弟の神八井耳命と神淳名川耳尊を殺そうとしますが、逆に弟たちに殺されます。末子の神淳名川耳尊が綏靖天皇として即位し、兄の神八井耳命は自ら身を退いたので「弥志理都比古」と呼ばれ、今は多神社に祀られています。『古事記』の太安万侶の祖先です。
綏靖天皇は、母の妹である五十鈴依媛を皇后に迎え、宮を葛城の高丘宮に構えました。
押さえておきたいポイントは、初代神武天皇に続き、大和の開拓神 大己貴神の子 事代主神の娘を娶り血縁を強めたことです。もし手研耳命の思惑通りになっていたら、奈良盆地での争いは続き、結果、大和以外の国が日本を統一していたかもしれませんね。
皇后
①五十鈴依媛命(日本書紀 本文) ②川派媛(日本書紀一書1 磯城縣主娘) ③糸織媛(日本書紀一書2 春日縣主妹) ④河俣昆売(古事記 師木縣主祖) ⑤五十鈴依姫(先代旧事本紀)
皇后はお一人ですが文献によって名前が違います。①と⑤は同じ。②と④は同じ(第4代懿徳天皇まで古事記と日本書紀一書1が同じパターン)。③は中臣氏系か?
『先代旧事本紀』は大臣を記します
宇摩志麻治命の子 彦湯支命を足尼、後に申食国政大夫(のちの大連・大臣に相当)に任じたと『先代旧事本紀』は記します。
ちなみに初代 神武天皇の申食国政大夫は、物部連らの祖 宇摩志麻治命 と、大神君の祖 天日方奇日方命と記されます。
天日方奇日方命は、大己貴神─事代主神─天日方奇日方命(鴨王とも)。妹に神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴媛、綏靖天皇の皇后 五十鈴依媛。のちに崇神天皇の巻で登場する大田田根子の祖先です(諸説あり)。
こうして見ると大和政権のスタートは、大己貴神の一族と物部氏の後ろ盾で成りたっていたと言えますね。
葛城高丘宮
初期天皇の宮は奈良盆地の南部に限られています。
初期大和政権は大己貴神の一族と物部氏が後ろ盾と書きましたが、綏靖天皇 後編では、その事を出雲国造が新任のとき朝廷に奏上する祝詞『出雲国造神賀詞』に記される内容、初期天皇を考える上で重要な鴨氏族の伝承地から深堀りしてみたいと思います。
余談
文献には見えませんが、綏靖天皇を祀る神社、或いは綏靖天皇の御代に創建したと伝える神社が奈良以外にあります。ざっとみた感じ、主に九州と山梨県に分布しているようです。『古事記』に神八井耳命を祖とする氏族が記されますが、その中に、九州は火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三宅連など。山梨は科野国造氏があります。おそらくはそうした氏族の伝承が神社伝承の元となっているのではないかと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。