安寧天皇をサザエさんで説明する
欠史八代 第五話 第三代安寧天皇 後編
「安寧」とは、穏やかで平和な状態を表します。安寧天皇の時代は、果たしてそのような平和な時代だったのでしょうか?この「漢風諡号」は、奈良時代後期に淡海三船により、神武天皇から持統天皇までの諡号(死後におくる名前。おくりな)を一括撰進したと考えられています。
便宜上、私も漢風諡号を使いますが、『古事記』や『日本書紀』が奏上された頃には、神武天皇の名はなく、『日本書紀』には「神日本磐余彦火出見天皇」と記されています。同様に、安寧天皇についても、『日本書紀』は、「磯城津彦玉手看天皇」とあり、『古事記』では「師木津日子玉手見」と表記されています。
また、『先代旧事本紀』では、「片鹽浮穴宮御宇天皇」と記されています。このような「◯◯の宮で天下を治められた天皇」という呼び方が当時は一般的であったのではないでしょうか。例えば『日本霊異記』にも、推古天皇のことを「少墾田宮宇御天皇」などと記しています。
安寧天皇の片塩浮穴宮はどこにあった?
片塩浮穴宮の伝承地は複数あり、『帝王編年記』『和州旧跡幽考』では畝傍山の北、奈良県橿原市四条町周辺とされ、『古事記伝』では大阪府柏原市に比定していますが、いずれも詳細は不明です。大和高田市の石園座多久虫玉神社境内に片塩浮穴宮碑が建っていることが唯一の手がかりとなります。
石園座多久虫玉神社の祭神について、『新撰姓氏録』には、「爪工連神魂命男(子)多久都玉命之後也」とあります。神社は建玉依彦姫二神を祭神としていますが、『特選神名牒』はそれには疑問を呈しています。
『新撰姓氏録』の爪工連についても資料は少なく系譜がはっきりしません。しかし、茅渟県(大阪府南部)や河内国を本貫とするという説があって、個人的にはその点に注目しています。
安寧天皇の系譜を「サザエさん」で説明すると、
安寧天皇の系譜を振り返ると、父は第二代綏靖天皇です。祖父 神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛の間に綏靖天皇が生まれ、綏靖天皇は媛蹈鞴五十鈴媛の妹の五十鈴依媛を皇后とし安寧天皇が誕生します。安寧天皇は、母の兄弟(天日方奇日方命)の孫にあたる阿久斗姫(古事記)を皇后としました。これを漫画「サザエさん」で例えると、
ワカメちゃんとタラちゃんが結婚します! この叔母と甥の婚姻を「叔姪婚」と呼ぶそうですが、このパターン、神武天皇の父母、鵜葺草葺不合命と玉依姫もそうでした。
ここでぜひ押さえておきたいポイントは、大和の大地主 大己貴神(大国主)の血統を安寧天皇と子の懿徳天皇で全て受け継いだことです。
マスオさんは磯野家で同居していますが養子ではありません。フグ田家の血統で言うと、マスオさん(神武天皇)−タラちゃん(綏靖天皇)−タラちゃんの子(安寧天皇)−タラちゃんの孫(懿徳天皇)の男系男子の系譜となります。初期の天皇家も磯野家ならぬ大和の大地主 磯城県主家に身を寄せつつ大和での地盤を固めていったものと想像します。
カツオくんの子孫はどこへ行った?
カツオくんを、磯城県主 弟磯城またの名を天日方奇日方命と考えます。カツオくんの後裔は上記系図以降も皇后を輩出しますが、第四代懿徳天皇以降、皇后の出自は文献によって違ってきます。近親婚が連続するのを避けたのか、大和政権内で派閥争いがあったのかわかりませんが、次第に物部氏や尾張氏が皇后を輩出するようになっていきます。
そして平安時代の『新撰姓氏録』には、志貴(磯城)県主の祖を饒速日命の孫 彦湯支命と記します。彦湯支命は、饒速日命の孫、宇摩志麻遅命の子で、第二代綏靖天皇の大夫(大臣)です(先代旧事本紀)。
磯城縣主の職を追われた? カツオくんの一族(元祖磯城県主)はどうなってしまったのでしょうか?
「県主」というのは律令制が始まる前の職責、姓の一種で、朝廷直轄地の長や国造の配下で祭祀を司る職責名です。成立は3〜4世紀とされていますから、成立時期において物部系の志貴連が正式に県主に任じられたのか、或いは伝承上『日本書紀』の記す神武東征の論功行賞によって弟磯城(天日方奇日方命)が任じられたあと、いずれかの時期に物部系の志貴連が大己貴神直系一族にとってかわったものなのかわかりません。このあたりはどうでも良いように見えますが、日本の始まりを知る上で私は結構重要だと思っています。
安寧天皇神社
綏靖天皇の記事で、綏靖天皇を祀る神社は九州などにあると書きましたが、それらの地域でも第三代安寧天皇を祀る神社はありません。詳しく調べていませんがこちらが唯一安寧天皇を祀る神社ではないでしょうか?
元は阿祢山に鎮座していたと伝わります。文久の修陵でその阿祢山が安寧天皇陵に治定された為、現在地に遷座されました。
御陵
畝傍山西南御蔭井上陵 阿祢山と呼ばれていた場所で、文久の修陵で安寧天皇陵に治定されました。御陵の名前になっている御陰井が近くの吉田町の集落内にあります(写真撮り忘れました)
ところで、御陵の名前にもなっている「御陰井」。前編で訪れた淡路島の「御井宮」や「御井の清水」とも関係があるのでしょうか。。。
『延喜式』諸陵寮では、兆域東西3町(321m)、南北2町(214m)、墓守5軒 遠陵とあります。平地にある神武天皇や綏靖天皇陵(107✕107m)より広いのは、阿祢山の丘上に周囲の土を削って方形台状墓を造り、山全体を兆域としたことによるものと想像します。
初期の天皇陵すべてに当てはまりますが、中世になると祭祀が途絶え、墓は荒れ、管理者も離散してしまって所在がわからなくなりました。
中世の荒廃がどれだけのものであったかは、歴史家 故 田中吉永氏の『大和志』寄稿文から引用させていただくと、「徳川三代将軍家光の時、奈良奉行は大和に陵一つもなしと報告した位で、延宝7年(1679)林宗甫の著『和州旧跡幽考』にも、「高市郡に多く陵待るよしふるき文共に見え待れども今打見渡しに見えず」とあり、勿論神武陵地も忘れられて心にとめる者がいなかったものであろう」と記されます(綏靖天皇の記事の一部を再掲)。
最後までお読みいただきありがとうございます。次回は第四代懿徳天皇です。