筑紫を出航した船軍は、響灘から日本海へ向かうのか?と思いきや、関門海峡を引き返して瀬戸内海を行き岡山に着いた
【いっしょに〝記紀〟を旅しよう!】第5話 吉備国高嶋宮への巻
日向を出て4ヶ月で吉備に到着、そこで3年滞在。日本書紀に記され行程を表にすると、
「古事記」は、年月日の記述はなく、筑紫 岡田宮で1年、阿岐国 多祁理宮で7年、吉備 高嶋宮で8年と滞在期間のみ記します。読み比べると違いがあるんですが、ここでは日本書紀の記述にそって話を進めます。
多家神社
埃宮の伝承が伝わる多家神社。私はまだ訪れたことがないものですから神社HPを貼っておきます。
つぎの吉備国 高嶋宮は、伝承地(論社)が岡山・広島両県にまたがっていくつかあります。私は聖蹟顕彰碑のある岡山市南区宮浦の高嶋神社と、もう一社 岡山市中区賞田の高島山神社を訪れました。
高嶋神社
高島山神社
昭和15年の航海
紀元2600年を記念して、西都原古墳群から出土した舟型ハニワをモデルにつくられた全長21m二人漕ぎの櫓24挺と帆を備えた「おきよ丸」が乗組員124名とともに美々津を出港し大阪に向けて12日間の航海を行ったそうです。
ここまでのまとめ
東征ルート
このあと河内国に到着して孔舎衛坂で長髄彦と戦います。その前に日向を出てここまでの話しのまとめを。
まとめと言っても私の勝手な妄想でしかありませんので読み流してください。最初に宇佐に立ち寄って「誰か東征に加わる強者はいないか」と尋ねると、「筑紫の海人は勇猛だ」と言う話しを聞き、遠回りして岡水門まで行った。しかし良い返事が得られず引き返して瀬戸内海を進む。次に安芸(埃宮)の首長にも協力を求めたが、こちらでも望むような回答は得られず先へ進む。ようやく吉備の首長の協力が得られ、この地で3年かけて準備をする。日本書紀は吉備までは「船軍」、吉備を出て「皇軍」と使い分けていて、吉備までは東征軍としては数も装備も整っていなかったのかもしれません。それと色良い返事がもらえなかった筑紫と安芸は、天皇が断られるというネガティブな事績は書けないので記述が無い!?
次回は妄想ではなくガチで書きます。神武東征が史実で、もし日本書紀の記述通りに行なわれたとすればそれは・・・
お楽しみに〜!