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『ローマは一日にして成らず』です。

欠史八代 第八話 第六代 孝安天皇

孝安こうあん天皇


 『日本書紀』に記される歴代天皇の中で、最も長い寿命と在位期間を持つ天皇として記されています。

和風諡号は「日本足彦押人天皇やまとたらしひこおしひとのすめらみこと」です。父は第五代の孝昭天皇、母は尾張氏の世襲足媛よそたらしひめです。

皇后は、姪にあたる押媛おしひめ(『古事記』では忍鹿比売命おしかひめのみこと)で、皇子は第七代 孝霊天皇お一人(日本書紀)。(『古事記』は兄に大吉備の諸進命もろすすみのみことを記します)。

宮は葛城之室秋津嶋宮かつらきのむろのあきづしまのみや、陵は玉手丘上陵たまてのおかのえのみささぎと記されています。

皇紀を単純に西暦に換算すると在位期間は紀元前392−291年になりますが、私の想定は、1世紀中頃から2世紀始めです(※前回記事で孝昭天皇の年代をこの孝安天皇と取り違えていました。修正済)です。


葛城室之秋津嶋宮かつらきのむろのあきづしまのみや

室の八幡神社境内に碑が立っています。神社背後には宮山古墳があり、真偽は定かではありませんが、武内宿禰の墓と伝わります。

八幡神社
御祭神は誉田別尊(応神天皇)一柱です。
室秋津島宮趾の碑
宮山古墳説明板



玉手丘上陵たまてのおかのえのみささぎと孝安天皇社

 満願寺の駐車場に車を停めさせていただきました。
御陵のある玉手丘陵全景。陵は北西の位置にあります。
満願寺の右手に鳥居。
孝安天皇社 割拝殿
本殿 両脇殿は日本武尊社と稲倉魂社らしい


孝安天皇社と向か合うように金比羅神社があります。

案内に従って
逆方向でした。参道入口へ来てしまいました。
石畳の道を戻ると
ありました。立派です。
 遠くに大和葛城山、金剛山。写真ではわかりませんが、見下ろしたところは先代 孝昭天皇の掖上池心宮伝承碑の立つ御所実業高校です。秋津・中西遺跡や室秋津宮の位置も確認できます。
 室秋津嶋宮の伝承地と御陵の間には、秋津・中西遺跡があります。京奈和自動車道の工事中に見つかったこの遺跡は、縄文晩期から人の暮らす場所で、発掘調査によって、紀元前5世紀頃の5万㎡にも及ぶ水田跡や、古墳時代の祭祀跡も発見されています。
初代〜第六代天皇の宮伝承地と御陵を地図に落としてみました。
上の地図をズームアウトするとこんな感じです。第六代までは奈良盆地南部の狭いエリアでの出来事であったことがわかります。しかし、この地は東は名張、伊賀、伊勢を経て東国へ、西は水越峠越えで河内から摂津・瀬戸内へ、南は紀伊へ通じています。欠史八代の系譜の記述には、皇子達が祖となる氏族がそれら地域へ進出したことが記されています。これらの地域との人の往来は、遺跡から出土した外来土器などで確認することができます。


イノベーター曲線と欠史八代と


話は変わりますが、マーケティングのイノベーター理論の曲線が、私の中の初期大和政権のイメージなんです。欠史八代(解釈によっては第六代まで)はまさにイノベーター期に思えるんですよね。 


 『欠史八代』は、それが史実であっても、創作であっても、初代 神武天皇が日向から東征して即位し、数代にわたって大地主の有力氏族と血縁を結び支配地を拡大し、第十代崇神天皇及び第十一代垂仁天皇の時代に、奈良盆地及びその周辺を統一するというストーリーを「系譜」から読み解くことができます。描かれる天皇と系譜がもし創作だとしたら、非常に優れた作品だと思いますね。

 崇神天皇が東征してきたとか、邪馬台国が東遷してきたとか、いろいろな説がありますが、いつの時代の話しなんでしょうか? どこからかやって来た国が、奈良盆地の勢力を支配下におさめて纏向まきむくに都を開いたなんてことは、いろいろ見てまわっている私には、とても考えられないことなんですけどねぇ・・。

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和珥氏わにうじについて


 第六代 孝安天皇の后は、第五代 孝昭天皇の兄である天足彦国押人命あめたらしひこくにおしひとのみことの娘、押媛です。天足彦国押人命は、和珥氏わにうじなどの祖とされており、孝安天皇は和珥氏から后を迎えたことになります。和珥氏はこの後、多くの天皇に妃后を輩出しました。


孝安、孝霊、開化、応神、反正、雄略、仁賢、武烈、安閑、欽明、敏達の各天皇に妃后を輩出しています。しかし、娘を入内じゅだいさせ外戚がいせきとして権力を握った蘇我氏や葛城氏、藤原氏などとは違い、和珥氏は政治面で表立った活躍は見られません。



 和珥氏わにうじ(和邇氏)は、現在の奈良県天理市和邇町、櫟本いちのもと町付近を本拠としたおみ姓の有力豪族でした。丸部(和邇部)という部曲かきべ(豪族に従属する私有民)は、摂津、山城、近江、東国は、美濃、尾張、三河、甲斐、伊豆、そして北陸の若狭、越前、加賀。西は丹波、因幡、出雲、播磨、備中、周防、讃岐など広範囲に分布していました。

欽明天皇の頃には、春日山麓に本拠を移し、和珥氏の本宗は春日氏を称するようになりました。そして、大宅おおやけ粟田あわた、小野、柿本かきのもとなどの諸氏に分かれたとされています。これらの中には、遣隋使として知られる小野妹子や歌人の柿本人麻呂などの有名人もいます。後漢中平年間(184〜189)の紀年銘をもつ鉄刀が出土した東大寺山古墳を含む古墳群は、和珥氏の墓所と考えられています。


 天足彦国押人命あめたらしひこくにおしひとのみことの母は、尾張氏の世襲足媛ですから、和珥氏わにうじは尾張氏と縁の深い氏族とも言えます。ただし、男系でつながっているわけではないので同族としては扱われません。『新撰姓氏録』は尾張氏は『天孫』、和珥氏を『皇別』(天皇家から臣籍降下した氏族)と分類します。

和珥氏は、非血縁氏族の同族化がすすみ巨大氏族となっていったことから、海人族や渡来系氏族とみられたり、魚へんの「わに」や、百済から渡来した王仁わにと混同した記事を見かけますが、「鰐」や「王仁」などは、明らかに和珥氏とは違いますので注意が必要です。


和邇坐赤坂比古わににますあかさかひこ神社

延喜式内大社に比定される社ですが、現在の御祭神、 阿田賀田須命あだかたすのみこと市杵島比売いちきしまひめに関しては疑問もあります。

阿田賀田須命あだかたすのみことは、『先代旧事本紀』の系譜で遡ると、天日方奇日方命あめひかたくしひかたのみことの後裔(大己貴神の直系子孫)になり、大田田根子の叔父ということになります。一方で宗像君むなかたのきみの祖ともされています。そして和爾氏の祖神(?)を祀る神社の祭神でもあるというややこしい人物です。このことをもって、和珥氏(和爾氏)が海人族とされる由縁ともなっています。

 ただ、『特選神名牒』では、阿田賀田須命あだかたすのみことが祭神であることに疑問を呈していて、「和爾坐」であるからといって和珥氏の祖神を祀る社とは限らないとも記します。私も、本来は赤坂比古神という和珥坂わにのさかの神を祀っていたのではないかと考えています。ちなみに中近世は長らく牛頭天王ごすてんのうが祀られていました。

和邇坐赤坂比古神社から西へ300mほど下ると、神武東征の段に記される『和邇坂下わにのさかもと』の伝承地があります。

『日本書紀』に、神武天皇の大和平定に際して逆賊として討伐された『和珥坂下わにのさかもと巨勢祝こせのはふり』という土豪(土蜘蛛)が登場します。時系列で言うならば、和珥氏が本拠とする以前から、当地は『和珥』という地名で、巨勢祝こせのはふりという土豪がいたわけです。そうしたことから、和珥氏の氏名うじのなは当地の地名『和珥わに』に由来するものと考えられるわけです。


最後までお読みいただきありがとうございます。次回は第七代孝霊天皇です。









 

 

 






 





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