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私の大学生活と除籍と居候。

私は大学を除籍になっている。

除籍とは「あなたはこの大学に、そもそもいませんでしたよ」という意味合いのものらしく「中退」よりも重い。私は履歴書上は高卒である。

大学を除籍になる方法は主に2つ。

[1]社会的な問題を起こした

[2]学費未納

私は、[2]学費未納である。


どこにある、どんな大学を除籍になったか。


北海道の小樽市にある、1910年創立の小樽商科大学。北海道では、北海道大学に次ぐ、自称北の名門で、国内唯一の単科大学であり商学部しかない。ここを学費未納で除籍である。


前期で北海道大学を受験し不合格となったが、小樽商科大学には後期で受かった。すぐに父に、合格したよ、とメールした。

父からは「おめでとう。小樽の海と桜はきれいだろうね」と返ってきてて、粋だなぁと思ったけど、心から喜べなかった。




本当はアメリカに行きたかった。




もしくは北海道を出たかった。でも、父は寝ないで働き、母も働き、私の下には妹と弟が3人いる。


おばあちゃんからは「北海道から出て行かないでね」と言われ、おばあちゃん子の私は北海道にとどまるしかなかった。

でも本当に行きたかったなら、それでも行ける方法を探すと思う。要するに、当時の私は何も考えていなかったわけ。いま書いたことも、これから書くことも、全部言い訳なのだ。

我が家には大卒の親せきは少なく、母は私を19歳で生んでいる。きっと私を生むときに反対があったかもしれない。でも、大切に育てられた。


ならば、


父と母の子育てが
間違っていなかったと私が証明したい。


19歳で生まれた子どもが北海道大学に入ることができれば、きっと家族の誰もが喜んでくれる。今思えば、子どもはそんなことを考える必要はない。生きてくれているだけでいい。

何かを見返してやろう、をモチベにしていたから、自分の人生をどうしていこう、などとは考えられなかった。


大学に入ることだけが目的化してしまっていた。


こういうモチベでは私は勉強が続かない。
まぁ、なるようになるか、と思って北大を受けた。

受験当日は、会場で全受験生が必死で直前勉強する中、私はラジオ番組(アンタッチャブルのシカゴマンゴ)を聴きながら、少年ジャンプを読んでいた。トガッている。

そしてしっかり北大に落ちる。
おっかしーな、実力不足か。



後期日程でセンター試験80%ちょっとの点数を小樽商科大学に提出した。それだけで受かった。地方の大学だから。北大しか見ていなかった私は、小樽商科大学なんて知らなかった。

小樽のどこにある大学で、どんなことが学べるのかも調べずに、純粋に北海道では北大の次にあたる文系大学だから行った。入試問題すら見たことがない。

高校の先生に「俺は小樽商科大学出身だ」という先生がいて、「へぇ~賢いんだなぁ、でも大したことないだろう」と思っていた大学に、私は行くことになってしまった。



ここから数年後、私はこの大学を除籍になる。


いっちょ、書こうか。


[1]大学に意義を見出せない


カス。

でもマジでそう思っていた。意義をまったく見出せなかった。同級生はおちゃらけて、親への感謝みたいなものも感じられず、ひたすらお酒を飲む。

「この授業は楽に単位を取れるぞ」と言ってる謎の上級生の言葉を、ほげほげ聞く同級生を尻目に、私は思っていた。


「ん? 単位ってなんだ?」


当時の私には、大学の進級だとか卒業だとかの概念がなく、ただただ一人でいた。必修授業は受けず、自分の興味のあるものだけを1人で受ける。

だから、友だちもできなかった。

部活もやらなかった。


就活もやってない。


華やかなキャンパスライフも知らない。



意志が弱く臆病だったのだ。


除籍になってすぐ起業してないあたり、
意志が弱い。だから、カス。


就活における新卒カードの重要性も知らなかった。

入学式の日に思ったことは「偉人は大学を中退か除籍だから、それでもいいや」だった。



人生は、なんとかなる。


大人物はブランドなど関係なく、自力でのし上がっていくものだ。大手企業から内定が出た、という謎の会話をする人たちを冷ややかに見る。この時期特有の謎のプライドが私の中にあった。


でも、すぐに辞める勇気はない。
時が過ぎるのを待った。


数年たって、いよいよ除籍になるとき、
父と母からは、さすがに怒られた。

こんな経緯があったなんて、両親は知らない。
これは言い訳。

私が好きなことを好きなだけ、あははと言いながらやってるカスだと思ってたに違いない。

事実、カスだった。第一志望に受からなかった大学生というのは、ヘンテコなプライドがあるものなのだ。


ある夜、実家暮らしの私の部屋に父がやってきて、事情を説明した。我が子がそんな状況になるなんて想像だにしていないので、しこたま怒られた。最終的に父に言われたのは、


「よ~し、歯を食いしばれ」


であり、言われてすぐ、歯を食いしばった。


正座で。


で、頬をぶん殴られた。


言われた。


「この家を出ていけ」


なんだろう、これ。

菅原道真の気持ち。
後醍醐天皇の気持ち。

いや、そんな高尚なものではない。
けど、マジで辛かった。

10月下旬の札幌である。
間もなく雪が降ろうかという時期。
とても寒かった。



[2]本当に出ていく


私は翌日、荷物をまとめて本当に家を出た。
平日だったから誰も家にはいない。

ドン・キホーテで買った大きなキャリーケースに、ありったけの洋服と、スーツと、6冊の『竜馬がゆく』と、4年間毎日書いていた日記と、生活に必要なものをまとめて、行くあてもなく家を出た。学生だからお金もない。


【関連】この当時に読んでいた本


こんな情けない状況になった時、
頼るべきは友である。

友だち2人にLINEした。
彼らは高校の同級生だ。


ちょっと「家出」したから、今夜会ってほしい


私はカスだったので学生だったが、友だち2人は社会人であった。1人は実家暮らし、もう1人は一人暮らしであった。



札幌市内の居酒屋に夜、集合する。

一人暮らししている友だちは到着が遅れるそうで、まずは実家暮らしをしているほうの友だちに事情を説明した。で、提案した。

「俺とルームシェアしてほしい」

そういうと、現実主義の彼は言った。

「んー、それはムリじゃないかなぁ、おれは実家だしなぁ」

だよねぇ


もう一人が遅れてお店にやってきた。事情を簡単に説明する。私の横には荷物でパンパンのキャリーケースが置いてある。

彼は、粋であることや、おもしろさを大切にする男であったので、即座に、静かに、こう言った。

「なら3ヶ月、おれんちに居候だな」

ガンジーよりガンジー感が出てる。
プォーっと、後光がさしてたと思う。



【関連】この友だちが放った天才的アイデア



[3]居候生活のスタート


こうして、粋な友だちと
私の共同生活がスタートした。

「3ヶ月だな」と言われたが、申し訳なさ過ぎて結局、2週間で仕事も住む場所も探して、居候生活は終わることになる。


2週間、バイトを掛け持ちしながら、仕事と家を探した。毎日ハラペコ。居候だから固い床に寝袋で眠る。ワンルームだ。

外に出れば交通費がもったいなかったので、移動は基本徒歩。徒歩移動中に手を冷やして本を読み漁った。あれほど読書した2週間はない。


ハローワークで仕事を探し、不動産屋さんに飛び込み、事情を説明した。状況を理解してくれて、家賃2万円の部屋に住むことにした。札幌市北区は麻生町(あさぶちょう)である。




彼との2週間の共同生活は、こう言っちゃなんだが、なかなかに楽しいものだった。

当時24歳くらいの2人が、深夜遅くまで語り合った。これからどう生きるか、過去の偉人の話、当時の政治動向、人生をどう楽しむか、彼の仕事の悩み、私の親への申し訳なさ、人との関わり方。エトセトラ。


ある夜、あまりに申し訳ないので、カップラーメンを2個買って、彼の帰りを待った。仕事から帰ってきた彼に、


「これ、一緒に食べようぜ」


と言うと、彼の手には大きな袋があって、

「(申し訳ない)と、思ってるでしょ?」

と言うもんだから、


「え?」


と私が言うと、彼は後ろ手に隠した大きな袋を差し出してきた。中を見ると、カップラーメンが10個入っていた。


「腹減ってるだろ、全部食っちまおうぜ」

かっけー!


ガ、ガンジー!


感動した。大いに笑った。

こういう人に私もなりたい、と思った。


もう1回書く。


こういう人に私もなりたいんだ。



【関連】彼の特徴について書いた記事はコチラ



[4]居候生活のおわり


2週間で仕事も部屋も見つけて、
なんとかなる目処がついた。

彼に言った。

「今夜、出るわ。マジでありがとう」

「思ったより早かったな」

感謝の印として、彼に手紙を渡した。


シンプルな一文。


なんと書いたか。


「本当にありがとう。
 このご恩は、忘れるまで忘れない」


文学や、粋であることに飢えた男2人である。札幌の秋、寒い夜に彼の家を出て、角を曲がるまで「またね~!」と手を振った。

あぁ、寒いなぁと思ってガラガラ歩きながら、ここからの人生は自分でやっていくんだ、と妙にワクワクした。

歩いていると、彼からLINEがきた。

「忘れるまで忘れないわ、俺も」

ぬひょー


この粋な彼はもちろん、ルームシェアを見事に断ってくれた現実主義の彼とも、いまだに友だちである。3人全員が素晴らしいパートナーと出会い、結婚もした。

彼らは過去の記事にも登場する、
尊敬する友だちだ。

そしておそらく、私は今年、
彼らと会社を設立する。私は副社長だ。


【関連】この2人の友だちが登場するエピソード



[5]両親とはどうなったか

後日談を書くと、それから数ヶ月後に生活が落ち着いた頃、父と母にもすぐに会いに行った。

謝った。

そうしたら、

「まさか本当に出て行くとは思っていなかった」

「生きるのって、結構大変でしょ」

「よく頑張ったね」

と言っていた。怒られなかった。

ちゃんと生きようと思った。


ごめんね、父さん、母さん。
妹たちも、何も気にしなくていいよ。
全部、俺が悪いから。



【後日談】父と釣りに行った時のエピソード



おわりに


ここから得られる教訓は、特にない。

大学を除籍になるなんて、もってのほかだし、
友だちにも迷惑をかけた。

生活をなんとかしようと思って、必死だった。

「歯を食いしばれ」と言った父の気持ちも痛いほど分かる。カスである。ただただ申し訳ない。


とりあえず、このエピソードは、事実の記録として、ここに残しておくことにする。


……


でも、

ここだけの話、ぶっちゃけ、思う。


私はいま、生きている。妻もいる。



ハローワークに行き、高齢者と一緒になって仕事を探した。情けなさを感じるヒマもなく必死だった。

以来、ありがたいことに上司にこびたこともないし、組織の悲哀みたいなものとも縁がない世界で生きている。

仕事では、私だけにしかできない価値を提供しているという、珍妙な自負がある。多くの人の仕事があって成り立っている、ってことを忘れてはいけないけれど。

だから思う。


ほら、あのとき私が思った通りだ。


人生は、なんとかなる。


リレーエッセイには「夢を見つけたいなら行動し続けよ」と書いた。noteの友だちからは陽キャだと言われたが、たぶんこの経験があるから私はこんなマインドなんだと思う。陰キャだよ。


……


賛否両論あるかもしれない。


が、若者よ、いいか。


人生は、なんとかなる。





さて、もう終わろう。


これを読んだ大学生諸君に言いたい。



絶対マネはしないように。

<あとがき>
この記事、実は昨年の11月に完成していたものの、下書きに埋もれてました。10代後半の私は、中身がないのに見栄だけで、ただ国立大学に進めば親に喜んでもらえる、と思っていたのです。空虚でした。それだけに、若いうちから明確な意志と目的を持って大学にいる方々に、心のどこかで憧れていました。今日も最後までありがとうございました。

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