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ひたすら人に認められるための努力と自己受容

こんにちは!

ケミオです。


人に認められたくてしょうがなくてした努力は、たくさんありました。


と言うより、これまでの努力のほとんどは、それに尽きるものだったかもしれません。


でも、目的が達成されることはついぞなかった…。


客観的な成果を挙げたことはあります。

でも、ここで言う目的は、「人に認められること」。

これを目的にしている限り、何をどんなに努力しても。

それが達成されることは、いつまでたってもありません。


「すごいね」と言ってくれる人はいます。

しかし、不思議なことに…。

そう言われても、自分が認めてもらえたとは思えないのです。


言われている自分は、自分である気がしないから。

そもそも、自分はなぜ努力をしたのでしょう?

人に認められるためでした。

自分が心からやりたかったり、それに向けて自ら動かされる何かがあって、始めた努力ではないのです。


言わば、他人の基準に端を発して、ひたすらその基準に沿うべく行った努力でした。

そこに自分は、いません。

努力をするのもひたすら操られているようで、残るのは達成すれば形の上では認められる、しなければ認められないという結果だけでした。


もう済んだこととして、努力をした自分自体を否定はしなくていいと思います。

ただ、ひたすら人に認められるため、というところには、苦しさしか生まれない。

自転車を永遠に全力で漕いでいなければならないような地獄に陥っては、疲弊します。

死にます。

それは間違っていると、今では思うところです。


一旦、話が変わるのですが。

最近、「自己受容」の本当の本当のところが、ようやくわかってきたと思います。


どこにいて、なにをしても、私は私で良い。

言葉にすると簡単で誰でも理解できそうなものですが、これを感覚的なところで私も、ちゃんと掴めてきたような。


かつてはそんなことを、考えたことはあっても、まるで想像ができなかったんです。

「私は私で良い」なんて考えようとしても、心の底ではまるで信じられない。

「私は私で良い」自分なんて、それこそいてはいけないように、いつも無意識に考えていました。


それが今や、少しずつわかるようになってきました。

一般的な人の感覚って、こんな感じなんだろうなという理解と共に。

まだ信じられないような気持ちと、これまでの慣れた考え方からまるで違うところへジャンプしようとしている怖さも、あるにはありますが。


とにかく、この自己受容ができてこそ。

話は戻りまして、ひたすら人に認められるための努力の間違いもまた、体全体で理解できると思います。

「私は私で良い」なら、ひたすら人に認められようという努力は必要ありません。

自ら向上したかったり、努力の必要を感じる事柄であれば努力すればいい。

違うなら違うでも構わない。

そう思いました。


読んでいただいてありがとうございます!

今日も残り、良い一日をお過ごしください!

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