不登校と中学受験(45)
ある子どもの中学受験と不登校(8)
私に胸ぐらを掴まれ、激しく怒鳴られて、彼はショックでひきこもりました。
それでも、19歳になり、ようやく暴れることもなくなり、彼は落ち着いてはきたのです。
彼はひきこもりながら、自分はどこで間違えたのか、なぜ、こんなことになってしまったのかということをずっと考えていたそうです。
ご家族からも勉強しろと言われたことがない、と彼自身が言っていました。
そんなご家族ではないのです。
勉強なんてできなくてもいいから、とにかく、穏やかに人と仲良く楽しく学校生活を過ごして欲しかった、と彼のお父様が涙をこぼしながらおっしゃっていたのは、今でも忘れません。
そんなご家庭に生まれ、育ったのに、なぜ、こうなったのか。
彼はそのことをずっと考えていたそうです。
私に怒鳴りつけられてから、1年が過ぎようとしていました。
彼も20歳になり、いよいよ、このままでは本格的なひきこもりになってしまうと、私も考えていた頃でした。
お母様とは、彼が来なくなってからも、ずっと連絡をいただいていました。
彼の様子をお聞きしながら、お母様のお気持ちも聞かせていただく、それだけの時間でしたが、ずっと1年近く、お母様とはお話を続けさせていただいたのでした。
ある日、突然、お母様から「今から本人が行きたいと言ってるのですが、良いでしょうか?」と電話がありました。
「もちろんです。お待ちしています。」
と答えて、彼が来るのを待っていました。
彼は、照れくさそうに教室に入ってきて、挨拶をしてくれました。
それで、この1年近く、何をしていたのか、何を考えていたのかをポツポツと話してくれました。
勉強することは良いことなんだ、勉強ができればなんでもできるようになる、良いところにも就職できる、そう思い込んできたと、彼は振り返って話をしてくれました。
だから、もっと勉強をして上の大学に行かないといけない、難しい大学に行く必要があると思い込んでいたというのです。
しかも、不登校になった以上、東大か京大に行って、不登校だったことが帳消しにならないまでも、打ち消せるようにはしないといけないと、不登校になったから、学歴で取り返すことをずっと考えていたというのです。
だから、学歴にこだわり、偏差値にしがみつき、必死になって勉強をしなければいけないと思い、生きてきた、それだけを頼りに生きてきた、と教えてくれたのです。
なぜ、ここまで、勉強に、成績に、偏差値にこだわってしまったのだろう、ということも、彼は自問自答を続けたそうです。
そう考えていると、ひきこもっている中で、小さい時から、ご家族にあまり褒めてもらったことがない、ということを思い、そのことばかり考えるようになったのです。
そこで、なぜ、褒めてくれなかったのか、とお母様に詰め寄ったことがあったのです。
そのことはお母様からもお電話をいただき、お聞きしていました。
もちろん、そんなことはなく、お父様もお母様も、すごく大切に褒めて、叱ってと普通に育ててきたとおっしゃっていました。
ただ、彼はもっと褒めて欲しかった、認めて欲しかったのだということがわかりました。
勉強でもスポーツでもゲームでも何でもよかったのです。
彼はもっとお母様にもお父様にも認めて欲しかったのです。
ご両親が褒めてくれない、認めてくれないのではなく、その褒めていた、認めていたことが、彼には足りていなかった、もっともっと褒めて欲しかった、可能性があると私は感じたのです。
ですから、そのことをお母様にはお伝えはしておいたのです。
だから、「ありがとう」を、彼に言うだけでなく、家の中で家族みんなで増やしてください、とお伝えしたのです。
このことについては、お父様がものすごく反省をされていました。
お母様に「ありがとう」を増やして欲しいとお伝えした後、わざわざお父様が電話をしてきてくださり、私が原因かもしれませんとおっしゃったのです。
お母様に対しても、照れ臭ささもあり、何をしてくれても、あまり「ありがとう」と言ってこなかったと、おっしゃってくださったのです。
実は、お父様は、彼がひきこもってから、自分の生き方が間違っていたのではないかと、ずっと悩んでこられたとおっしゃっていました。
そのことを、彼から突きつけられたように思いました、と電話でおっしゃったのです。
この日から、家の中が変わっていったと、お母様もおっしゃっていましたし、彼もそう言っていたのです。
やっと、彼が求めていたものに出会えて、その環境になって、彼が少しずつ自分の状態を受け入れられるようになったと、彼は言っていました。
ここまでになったのは、中学受験大手進学塾に行き、勉強ができた時に、こんなに褒めてもらえる、「君はやればもっと上に行ける。灘中も狙える!」と言われたことが、ものすごく嬉しかったと、彼は教えてくれました。
だから、ものすごく頑張ったし、その時の勉強方法にこだわったし、そのことが全てだったと、彼は泣きながら、「だから灘中を受験できなくなってすごく苦しかった」と話してくれました。
「僕にはそれしかなかったんです」と。
当時の塾の先生は、本当にそう思っておっしゃってくださったと思うのです。
でも、その子どもの心の中の状態や、その子の、塾に来るようになるまでの成長の背景までは、知る由もなかったでしょう。
その一言、塾にとっては子どもの成績を伸ばして上げようと思う講師の思いやりの一言が、ここまで子どもの人生を狂わせることになるなどと、到底、考えることもないと思うのです。
一歩間違えれば、犯罪者、殺人犯になっていた、彼はそう振り返っていました。
紙一重だったと、彼は真っ直ぐに私を見つめて、言っていたのが印象的でした。
それから、約1年半、やっと自分を受け入れることができるようになり、やれることをやって、無理のない範囲で勉強を続け、穏やかな気持ちで今年の共通テストを迎えました。
やれるだけのことをやってきたと、彼は微笑みながら言っていました。
彼の受験は、彼が納得できる形で来年で終わらせると決めました。
最後まで見守っていたいと思います。