神秘に触れる時間
スピリチュアルを言葉に興すことはとても難しい
以前友人に
「形があって無いようなもの、
だから…」
人は現実を生きているし
私も現実主義な部分が多いし
共有することは難しいけれども
得難いからこそ
美しく観えるし尊いのかもしれない
私は15才頃から
神社仏閣巡りを癒しの時間として大切にして来ました
心が疲れてしまったりした時や
自分自身の誕生日のご褒美に
かなり離れた円も縁もない
お寺や神社に日帰りで行くことを習慣にしていた時期がありました。
「何でそんなことしてたのかな…」
今振り返ると不思議でしょうがない
ただ
お寺の下の方にある縁側に座って、お茶と落雁を頂くことが好きだったのである
頭の中が常に忙しいので
そういうおばちゃんみたいな時間が必要だったのだろう…
こんな由縁の1番の要素は
やはり幼少期に奥多摩の祖母の家に行くことが多かったから
とにかく1人になる時間が元々必要な人だったのである
地元の氏神様でのマルシェの開催に2015年から毎月行くことが習慣化した頃、元々見えていたり感じていたあやふやなものが、私の中で雲を掴むようなことではなく輪郭がはっきりして来て、すんなり受け入れられるように促される流れになった
そこで
九星気学とカラーセラピーに出逢い、ずっと自分のルーツを探す旅…家系を辿る作業をして来たのである
カラーセラピーで神秘的な時間を交流しながら、今の彼と精神的な繋がりを深めていきました
それは
私の人生のブループリントに元々あったのだろうか…
個とダイレクトに交流する時間はやはりエネルギーの交換なので、
自分自身の10代20代30代の淀んだエネルギー交換は、私の純粋な気を汚してしまい、自分自身の元々あった信念がなくなってしまったのである
私はエネルギーの強い人がとてつもなく苦手です
相手に優しく出来なかったり
愚痴や不満を撒いていたり
相手の価値観を否定したり
その存在さえもぞんざいに扱い気が付かない
「何故相手をまるごと受け入れない人と付き合うのだろう…」
細かく言えば
愚痴や不満が出て来る相手と付き合ったり結婚したりしなければ心が平穏で居られるのに…
縦社会に入ればやはりそれは否めないのだろうか…
自分の心が平穏で居られる居場所と言うのは必ず誰しも探せば見つかるはずなのである
もし
愚痴や不満やネガティブな思いがあったら積み重なって重い山となる前に、整理整頓したり直接本人に言えばいい
こんな考え方になったのは
大変な人たちと関わることが多い人生だったからかもしれません
ぼやかしたりあやふやにしか書けないが、人生の暗部と言うものはやはり人に言葉にして伝えることは、過去に思考が向かってしまうので容易ではないが辞めた方がいいと思う
人は死に向かって生きている
だから思想や哲学が必要になって来る
でも哲学ってそんなに難しくはない
愛や心の深部に自分自身が向き合い触れることで今までの行いを振り返ったり価値観がガラッと変わったりすることは簡単な自己変容であり、経験すると人生の後半がとても生きやすく自分自身も丸くなれるのです
哲学=愛の確認