愛しい誤謬
「自分を大切にしてくれる人だけ、大切にすればいい。」そんな言説をここ数年でよく見聞きするようになった。サロンのお客様をはじめ、色々なバックグラウンドをもつ人と話していてもたまに(というかむしろ頻繁に)そんな人生訓あるいは処世術のようなことを、諦観を滲ませ、笑い飛ばすように、あるいは乗りこえた悲しみに花を手向けるように、そうやって口にする人と出会うことがある。
人生の道程を経るにあたって、身につく(あるいは悟る)人生訓や処世術にはある程度、経験の量や質によって、単一直線的ではないにせよ、一般化できそうな段階というかステップみたいなものがあるような気がしている。
子供の頃は全ての人が全ての人と話し合えば分かり合える、友達になれると思っていた。大人になる頃には世界からは戦争がなくなっているのだろうと単純に信じていた。そうではないかもしれない、と気付いてしまったのはいつ頃だっただろう。中学生か、高校生か、それとも社会に出てからだっただろうか。
純粋で、ある意味では大海を知らず、ゆえにロマン主義的な少年時代を経て、社会の荒波に揉まれ、人間という生き物の狡猾な残忍さと複雑な集団構造を学び、多くの人はそうやって少しずつ大人になっていくのだろう。
この人生訓、処世術はそんな経験が生み落とした涙の結晶のようなものなのかもしれない。
「自分を大切にしてくれる人だけ、大切にすればいい。」
そんな気持ちは痛いほど分かる。社会には、自分を大切にしてくれない人が本当に沢山いる。大人になって、社会に出て心底びっくりしたことは、想定以上に多くの人が驚くほどに自己保身と責任回避、そして内外の区別(差別)を挙動のプリセットとして社会生活を営んでいるということだ。彼ら彼女らのひそひそ声や卑屈な視線から想起される悪寒は、感じさせられたことのある人なら嫌というほど脳裏に焼き付いてしまっているだろう。多分に漏れず、僕にもそんな経験がある。
そんな人たちとは一刻も早く関わりを断ち切った方がいい。人は"なにをしているか"よりも"誰としているか"に仕事の充足感を感じやすいという話を聞いたことがある。こっちまで腐ったりんごになるのなんてごめんだ。
分かってはいる。けれど、
本当にそれでいいのだろうか、とも思う。
自分を大切にしてくれない人はさっさと切り捨てて、大切にしてくれる人だけを大切にする。手の届く範囲で、心が満たされたことへのお返しの循環を巡らせる。それはそれで、ひとつの現実的な幸せの形なのかもしれない。クローズドなコミュニティの中で、同質性の和音に浸されて。
それが本当に僕たちが目指す社会の在り方だろうか。愛おしい子供たちに見せる、未来の社会の姿なのだろうか。そんな問いが脳裏によぎる。
僕は稚拙にも、そうではないと信じている。
「自分を大切にしてくれない人までも、みんな大切にする。」そんな理想的な寓話を、愚鈍にも信じてしまっている。
それはとても難しいことなのかもしれない。だけど、例えとても難しいことなのだとしても、不可能なことではないはずだ。
今まで29年間生きてきて、いや東京に上京してきた11年前からを概算しても、本当に沢山の人と出会ってきた。尊敬する人、憧れの人、かっこいいなと思えた人だけではない。弱い人、卑劣な人、かっこわるいなと思ってしまった人もいる。
立ち止まって思いを巡らせてみると、それらの思い出に主観的に特別な貴賤はなく、僕はその全ての人を愛してしまっていた。それは個別的な関係性として破綻してしまっていても、個人的な感情が嫌悪感に満たされていても、それでもその人たちの存在性に対して、儚くも悲しい不毛な人類愛を抱いてしまっているのだ。
客観的に見るまでもなく、僕は今"きれいごと"を言っているのだろう。そんなことは百も承知だ。それでもなお、確信をもってその理想を保ち続けてしまっている。それは僕が大人になりきれていないからなのかもしれないし、現実を見れていないからなのかもしれない。あるいは、自ら閉じているパーソナリティに起因した偏狭な環世界の捉え方なのかもしれない。
だけど、そんなのは実際どれだっていいのだ。インプットがどうであれ、世界に対するアウトプットとして実際に僕はそう信じてしまっているし、僕にとっての"真理"みたいなものはそこに在ると観取してしまっている。
そういえば、ニヒリズム的な超人思想と「神は死んだ」というパンチラインでお馴染みの19世紀ドイツの哲学者ニーチェ(1844-1900)はこんなことを言っていた。
『真理とは、ある種の動物、生きものがそれなしには生きていけないかもしれない誤謬のことだ』と。
僕は「自分を大切にしてくれる人だけ、大切にすればいい。」という人を否定しているわけではないし、階層秩序的二項対立における人生訓、処世術(あるいは思想)の優劣を語りたいわけでもない。
ただ、「自分を大切にしてくれない人までも、みんな大切にする。」そんな風に信じて真摯に生きる自分を愛しているのかもしれない。そんな自分だからこそ、愛せているのかもしれない。
今は、そんな風に思っている。
報われるかどうかは正直わからない。きれいごとだ、理想論でしかない、と否定批判する人たちの、社会からの声もありありと聴こえている。
そんな想定される声も、それはそれでいいのだと思う。僕が報われずに死んだとき、その棺桶に向かって冷笑の合唱をどうか届けてくれ。
それでも僕は"みんな"を大切に生きていきたい。
ひとりも取り零さずに。最大多数の最大幸福を目指して。そんな未来を子供たちに見せてあげたい。
そうやって僕は独り、愛しい誤謬を抱きしめる。
秋風がなぜか生暖かい10月の中旬。金木犀がふわりと薫る夜。
今年も、もうあと2ヶ月で終わりだ。