グレーの羊

文筆家。人は苦手、だけど人が好き。趣味は哲学。煩わしくて愛おしい矛盾だらけの日々についてのエッセイ『水色のブルー。』連載中。

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  • エッセイ|水色のブルー。

    【週1-2更新】日常のあれやこれやを哲学したりしなかったり。

  • 詩集|よはく

    【不定期更新】日常の断片と抽象的なイメージと、その余白。

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    エッセイ『あーあ、繊細でよかった。』過去投稿の中で人気の記事をまとめました。初めての方はこちらから。

最近の記事

「他人を軽率に判断/ジャッジしない」ということの本当の意味

ぼんやりしているものに目を凝らして、少しずつ解像度を上げていく。丁寧に細部を一つひとつ言語化していき、整理分類して、系統立てて、理解を深める。深層まで降りてゆく。そうしてその「表象」から「物自体」へと一歩ずつ肉薄していく。例え本質的な「物自体」には届かないのだとしても、近づけるギリギリまで歩みを止めない。誠実に、実直に。 それが営みとしての「哲学」とも言えるのだと思う。 そしてそれは生きていく上で、もっと言えば"善く"生きていく上で全ての物事に敷衍することができるのだと、

    • 愛しい誤謬

      「自分を大切にしてくれる人だけ、大切にすればいい。」そんな言説をここ数年でよく見聞きするようになった。サロンのお客様をはじめ、色々なバックグラウンドをもつ人と話していてもたまに(というかむしろ頻繁に)そんな人生訓あるいは処世術のようなことを、諦観を滲ませ、笑い飛ばすように、あるいは乗りこえた悲しみに花を手向けるように、そうやって口にする人と出会うことがある。 人生の道程を経るにあたって、身につく(あるいは悟る)人生訓や処世術にはある程度、経験の量や質によって、単一直線的では

      • 「他人に興味なさそう」と言われるとヘコむ

        最近、気づいたことがある。 もともと僕は、本を読むということは"著者との対話である"という感覚をもっていた。これは僕が普段好んで選ぶ本が哲学書ということもあってそう実感していたのだけれど、これは哲学書に限った話でもないのだろう。エッセイなんか分かりやすくそんな側面があると思うし、詩集などもそのように捉えることができるのかもしれない。 著者が綴る"問い"と、その"答え"の地平に時空を超えて自分自身の内面を同期し、語りかけられつつ、ときに語りかけながら、その終着点へと共に並走

        • 自ら閉じる

          noteの更新が1ヶ月空いてしまった。 元気ですか、お変わりはないですか。 おひさしぶりです。ごめんなさい。 久々の更新と相なってしまったけれど、今日はその経緯と、これからのnoteについて書いてみることにしたい。 今まではnoteに書かなかったことを書いてみるつもりだ。正直、怖くもあるけれど、必要なプロセスだと思っている。 束の間、耳を(目を?)傾けてくれたら嬉しい。 更新が滞った第一の理由は起業をしていたからだった。夏くらいから準備を始めて、3ヶ月ほど。ようやく先日

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          ものごとは二分法で語られるとき、だいたい間違っている

          よく「新しいことに挑戦したい人/同じことを継続したい人」という二分法を耳にする。 人生に刺激が欲しいのか、それとも安定を求めるのか。そもそも二者択一ではないだろう人生という気もするけれど、これはこれである程度概観として性格を分類できる便利な指標だとみなされて(たしかにいい話の種ではある)俗世間一般に流布されている。 僕自身はどちらかというと後者「同じことを継続したい人」かなあと思っていた。人生に波風はいらない。僕が欲しいのは凪いでいる心地良い日常だ。変化とか、刺激とか、挑戦

          ものごとは二分法で語られるとき、だいたい間違っている

          あなたにしかできないことを

          どうすればいいんだろう、と立ち尽くしてしまうときがある。 あっちでは戦争が起こっていて、あそこでは不理解と不寛容が差別を生んでいる。こっちでは今年も教育を受けられない子どもが生まれていて、ここでは今日もあの人が一人部屋の中で泣いている。 どうすればいいんだろう。意識的にニュースのインプット量を制限しないと日常がままならない。 ほぼ一党独裁の国では首相をテロリストに銃殺された第一党の党首を決めるお祭りごとにコメンテーターがやいのやいの言い、顔のない投稿者たちがそれに対して

          あなたにしかできないことを

          心に血が流れるとしたら

          「心の血って、何色だと思います?」 先日サロンで施術中にお客様と話していて、そんなことを訊かれた。「今度サロンに行ったら訊いてみようと思ってたんです。」その人は九州から上京してきていて、いつもサロンでは一緒に仕事のこと、人間関係のこと、エトセトラエトセトラを沢山お話をする、そんな一幕の話。 傷つけられて、悲しんで、苦しくて、そうやって心にも血が流れるとしたら何色の血が流れるのだろう。 「ちなみに⚪︎⚪︎さんはどう思うんですか?」僕はうーんそうだなあ、と考えて思いついた話

          心に血が流れるとしたら

          優しいとか強いとか自立とか他者とか、そういうことについて

          フリーランス美容師が集う次世代型コミュニティーサロン・シェアサロンに在籍してもうすぐ1年になる。 正直、今まで関わってきたコミュニティーの中では格別に居心地が良い。それは属人的な要素(代表夫婦がほんとにめちゃ素敵、所属しているスタッフが良い人ばっかり)はもちろんあると思うけれど、システムや唯物論(社会が人を規定する思想)的な要素が深く関わっていると個人的には思う。 それは構造の問題でもある、というように感じていたりもする。 いまのサロンはそれぞれがリスペクトを以って関係性

          優しいとか強いとか自立とか他者とか、そういうことについて

          「する」と「される」のあわいで

          先日、中学時代の部活の同級生が東京出張ついでに髪を切りに来てくれた。 自分から同級生に連絡することなんて全くと言っていいほどないような、地元(仙台)を捨てたと揶揄されても言い逃れできない程度に地元への帰属意識が希薄(あるいはコミュ力が薄弱)な僕にとって、美容師をやっているというのは放っておいても同級生が会いに来てくれる(←言い方)という、自分から人里を離れておいてたまに人肌が恋しくなるわがまま赤鬼にこれ以上なく恵まれた環境であると言えるだろう。 東京で美容師をやっていると

          「する」と「される」のあわいで

          晴れ|詩

          雨が居眠りをするように ふ と止んだ暮れ六つ あ と零した唇に ね と君が無邪気に笑う 白桃色をした麗らかな頬に目が眩み 一雫の雨垂れが光る向こうの夕べ 僕は言葉を余白に預けて ただ、君の瞬きに耳を澄ませる

          産まなければよかったと言う母親に、これからの知性の在り方を思う

          30代目前ともなってくると、地元の友人知人や東京でも20代中頃で結婚した友人にちらほら子供ができていたりする。 同級生が車を運転しているのを助手席で眺めながら「うわぁなんだか大人〜」と思ったのと同じように、親になった友人が子供に向ける温かい眼差しを、その目も綾な横顔を見ていると「そっかぁ親になったんだね〜」と不意に涙ぐんでしまいそうになる。 "親になる"、"親である"ことって、ものごとの表象的に"そうなった"時点は確定できそうなものだけれど、その内実はたぶん少し違っていて

          産まなければよかったと言う母親に、これからの知性の在り方を思う

          "わからない"の地平を見つめて

          他人と話していて初めて言語化できることがある。言葉にしてみて初めて「あ、そっか、自分ってそう思ってたんだ」なんて驚かされてしまうことがある。 ここ最近、哲学だけではなくて詩(現代詩や短歌)についてもとても興味が湧いていて、そのことについては自分の中である程度言語化しているけれど(イデア論,論理空間,詩作的思索,身体知etc.)、そんな話を他人にしてしまっては大抵引かれて「ははは、なんかよく分かんないですね」って言われてしまうのがオチなので、そうそうこの話はしないように気をつ

          "わからない"の地平を見つめて

          "する"ということ、"在る"ということ

          7/7(日)東京都知事選、巷では『七夕首都決戦』なんて銘打たれてお祭り騒ぎになっている。 選挙公報やまとめサイト、YouTubeで候補者の動画を漁り、「"彼"に東京都政を託してみたい」なんて自分の考えがぼんやりまとまりつつあったところで、 朝、いつもより少しだけ濃いめに淹れた珈琲を飲みながら、期日前投票の用紙を手にふと考える。 ある意味、西洋哲学の集大成とも言えるフランスの実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトル(仏: Jean-Paul Sartre1905-1980)は

          "する"ということ、"在る"ということ

          あすも、あさっても|詩

          誰でもなくて誰でもあるような ありふれた日常に溺れて またねと手を振る頬に差すは 白んだ夕日と仄かな憂鬱 君の声はどんな風だったか 柔らかい癖毛のふわふわが懐かしい 変わらないものはひとつもないなんてことを 納得している人はどれだけいるのだろう 零れ落ちる虚飾に怯えて 明日もまたプラトンの美しい嘘を塗り重ねていく 明後日も、明明後日も 玉虫色の世界を ただ、ひたすら真白に

          あすも、あさっても|詩

          うたた寝|詩

          いつの間にか眠ってしまっていたみたいだった 甘ったるい嘘とほろ苦い優しさの香りに 微睡みの輪郭をそっと優しく撫でられて ふいに目が覚めた夕暮れ ティラミスみたいで美味しそう 君の薄い紫色の声が耳の奥の方を 微かに引っ掻いている ティラミスだったらよかったのにね 薄暮の湿度が皮膚と溶け合う 終ぞ、僕の嘘を君が知ることはなかった 君の嘘をもはや僕が知ることはないのと ちょうど同じように

          うたた寝|詩

          選んできたことと、選ばされてきたこと

          「人生は選択の連続だ」とシェイクスピアは言ったらしい。 今までの人生における選択を振り返ってみる。僕は一つひとつの選択を自律的に選んできただろうか。すべてが能動性の帰結と言えてしまえるだろうか。選んできたとも言えるし、選ばれてきたとも言える。選ばされてきたとも言えるかもしれない。 自律と他律のあわいを考える。 先日、豪徳寺のワインバーで友人と昼過ぎからゆっくり飲んで話した帰り道、通りがかりにふと気になって下北沢のギャラリーに立ち寄った。 そこでは東京を拠点とする小田倉

          選んできたことと、選ばされてきたこと