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研修に終わりってあるんですか?

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。

というわけで、久々のnote更新となってしまいましたが、年の初めの良いタイミングかつ今月後半からの体調不良からほぼ回復したということもあり、改めて初めていきたいと思います。

私の仕事は昨年の4月から研修講師ということをメインにした業務にシフトチェンジしており、そこから数多くの登壇の機会を持たせていただきました。

この「登壇して話す」という捻り出したをアウトプットを明確に伝え、
「いかに相手の心を動かせるか?」ということはステージに立って曲を披露するようなものですので、
適度な緊張感があり、それなりのクオリティが要求されるということもあり、なかなか緊張感のある日々が送れたのではないかと思っております。

さて、前置きが長くなりましたが、この研修を行う立場になったということを通して気付いたこと、感じたことを今日は綴っていきたいと思います。

私が行っている研修はいわゆる「企業に向けたビジネス研修」であるため、どこかの会社に属した方向けということになります。

したがって、20代の若手から50代のベテランまで年齢層も幅広いです。
それぞれの方でそれぞれが持つ課題感は異なりますが、実は目的は全て同じだったりします。

それは、
「研修で学んだことを実業務に活かすこと」
です。

その度合いに差はあれど、必ずこの目的に収斂されるという意味では大きな差はないように思います。
もしもこれが全くない研修になってしまったということであれば、大失敗ではありますが、やる側の人間から言わせてもらえば、
さすがに「全く役に立たなかった」というのはそうはないと思います。

というのも、それは受け方の姿勢の部分でも若干問題があり、既に知っていることであれば、「そこからどうさらにアレンジを加えるか?」ということを考えたり質問することだって出来るわけです。
つまりは、「こんなのほとんど知っているし」というバイアスが「全く役に立たなかった」という先入観を導いてしまっているように思います。

研修は知識を競う場ではありませんし、どちらかと言えば、
「複数の方が集まることによって、他の人の理解や自分の理解を知る場所」
と捉えても良いと思います。

したがって、たとえ知っていることが多かったとしても、「自分の立ち位置」「自分自身が今後学ばなければならないステップ」を理解するというだけでも学びには繋がるかと思います。

何が言いたいかというと、若干こじつけがましいようにも聞こえますが、
「どんな状況であれ、学びは存在する」
ということです。

※以前の記事で、伊能忠敬が50歳から暦学の勉強を始めたということも参考になるのではないかと思いますので、紹介しておきます。

この姿勢なんですよね。
今日のタイトル、「研修に終わりってあるんですか?」というのは、私が塾講師時代にとある研修を受ける条件について、腑に落ちず曖昧だったということに対して、ふいに出てきた言葉でした。

なぜそう思ったかといえば、
「学びに終わりはない」
と思うからです。

この言葉に関連して、若干納得が出来ない出来事があったため、それを以下に綴っていきたいと思います。

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