『「40歳を超えて、大学院に通う」ということ』⑪「父親の年齢と、壁の存在」
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
(この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「居酒屋」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)
大学院で学ぼうと思った理由
元々、私は家族介護者でした。
1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。
私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。
「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由
それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。
同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この10年間感じてきました。
もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士や公認心理師を目指したい。さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。
この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
よろしくお願いいたします。
今回は、勉強を始めて、2度目の受験で臨床心理学専攻の大学院に合格することができました。手続きも終え、通い始めた頃の話を、つい先日、投稿したのですが、それからの日々も、お伝えしようと思いました。
なるべく、続けて紹介した方が、あの頃に感じていて、細かいかもしれない、様々な悩みや、戸惑いも、伝わりやすいのではと思いました。
居酒屋
2010年、4月19日の今日で、ほぼ一通りの講義を受けることになります。
行きの電車の中で疲れのせいか微妙な寒気がして、これで授業をとり続けたら倒れてしまうのではないか、みたいな事を思い、着ていたコートのボタンを上までとめて、しばらくしていたら少し汗が出てくるようになり、なんとか大丈夫かと感じたりもしましたが、でも、一通り受講して、そのなかで講義は1つ減らそうと思っていました。
これに加えて実習も始まります。
毎週、火曜日は午後1時半から午後5時半まで大学に開設されているカウンセリングの相談室で、受付などの実習があった上で、そのあとに、講義が午後9時すぎまでになります。体が持つのだろうか、とかなり不安になり、火曜日の講義は一つ減らさせてもらおう、などと決めていました。
学校に着いたら、午後6時頃だったから、学食のテーブルで座ってカロリーメイトを食べて、それから教室へ行き、最初に声をかけてくれた同期の青年としゃべっていたら、なんだか雑誌にライターとして書いていた事を話すことになり、調子に乗ってしゃべってしまったような気がして、あとでちょっと後悔しました。
でも、聞いてもらえて、うれしく思っていました。
講義は、予定より、20分くらい遅れてスタートし、それは担当教授が別の大学でも授業を持っているらしく、だから、いつも遅めに始まるらしく、そのあたりはけっこうアバウトなところもあるんだ、などとも思いました。
講義が始まると、今日はオリエンテーションという事で、これからの講義の進め方の話になりました。
小説を読んで、それを元に議論をしていく、というような内容と聞いて、面白そうだ、と反射的に思い、さらに、話は進み、去年は春と秋の講義があって、春は小説、秋は専門書、という組み合わせになったので、今回は、どうしましょうか?というような話まで進みました。
そうしたら、じゃあ、15分くらい話し合ってください、と教授は、教室から去っていって、そのしぐさはフランスのコメディアンみたいで、それがカワイイ、と評判だったので私にとっては意外でしたが、それから話し合いは、思ったより混乱しました。
最初に、小説を読みたい、という意見が出たあと、社会人の同期から、時間がないし、ここにせっかく来たのだから、専門書を読みたい、という意見も出て、どちらも、もっともだと思ったのですが、自分としては、でも、ここにいる人たちと一緒に小説を読んだりしたいし、それにプロの先生もいるから、そういうチャンスの方がないような気もするので、というような話もしましたが、でも、あとは、さらに、いろいろと話が出て、まとまらず、ちょっとした議論みたいな空気になりました。
予定の15分の時間はかなりオーバーしたのですが、なんだかそれぞれの人の気持ちが出て、面白いと感じました。(考えたら、それも失礼な見方ですが)。
無駄なく何とかしたい、というような話はやっぱり社会人(自分だってそうですが)から出て、そうはいっても、前半は、小説を読んで、後半は専門書を読んで、という事で落ち着いていきました。
思った以上に、強めな言い方をする人もいたことが、私としては、そんなものだろう、とも思った程度でしたが、若い人ほど、そういう議論がぶつかるような空気を嫌うというか、苦手だという事を知り、時代が進んで、繊細さが、やっぱり増しているのだ、と改めて思いました。
そこで講義は予定より早く終わったし、お茶でも、という事になり、さらに人が加わって、「さくら水産」で少し飲みましょう、という事に広がりました。
「さくら水産」という居酒屋チェーンを初めて知りましたし、こうして、居酒屋に誰かと一緒に行くことは、いつだったのか覚えていませんでした。夜間に、飲食店に行くことも、介護が始まってからは、記憶にありません。
その時間は楽しいものでした。
じわじわと、とても楽しかったのですが、その時間の会話の中で、自分の年齢が、同期の青年の父親と同じ年齢ということがわかりました。自分が一気に老け込むような気がしました。
何十年か前に、何気なく自分がした事が返ってくるのだと思いました。
若いとき、仕事の場面で、飲み会で同席した男性が年齢の話をして、それが、自分の父と同じでした。親しみというか、距離感を縮めたくて、そのことを伝えたら、その男性は、驚きと微妙な悲しみの混じった表情をしていました。悪いことをしたと思いましたが、どうしようもありません。今日の、自分は、そのときの男性と、同じような顔をしていたのではないか、と思いました。
でも、そうやって、お父さん扱いされて、一時期はショックを受けて、それからまた同等になっていく、というか、将来、プロになったとしたら、同期としてのつながりが出来て、それは、ヘルパー2級の時のように、資格取得後、何年経っても同期と集まれるような感じになったら、思った以上の財産になるはずなのに、とも思いました。
同時に、大学院のたった17人の同期でも簡単にまとまるのは難しいかもしれない、とも感じていました。だけど、講義での議論や、居酒屋での時間など、そんな一つ一つがとても新鮮で、とてもありがたいことに変わりはありません。学生っぽいなー、と思いつつ、とても楽しい時間でした。
午後11時まで居酒屋にいて、だから、帰ったのが12時過ぎでしたから、それから、夜間介護に入るとしても、妻に迷惑をかけてしまいました。
分かっていたはずなのに、改めて自分の年齢を思い知らされたりもしましたが、でも、これからだし、何しろ繊細な時代になっているのも分かった気がしました。入学して、まだ二週間ですが、学生時代、という感じがしているのが、自分で分かりました。
それが、けっこううれしい。
そのことにも気がつきました。
質問
4月20日の今日は、同期で、すでに臨床心理士の資格も持つ人が講義で発表をする日で、実はかなり楽しみにしていました。
午後6時半に講義開始なのでその前に早めに行って、学食で今日こそはと思って、ハンバーグ定食を食べていたら、今日の講義の教授も、少し遠くのテーブルで一人で食事をしているのが見えました。
講義の開始時間が近づき、5階に上がって一人で待っていたのですが、同じ講義を受ける人が来て、教室が違っている事を教えてくれました。恥ずかしながら、気がつきませんでした。掲示板にあったのですが、それを見る習慣がまだついていないのに、気がつきました。そして、教室の移動をして、待っていて、教授が来て、机を並べ替えて、講義が始まってから臨床心理士の現状がかなり厳しいことをまた話してもらい、それから発表が始まりました。
その内容も臨床心理士が現場に出ても、他の職種との連携の難しさの話でした。講義が始まる前に、それについて、援護してください、つまりは質問してください、と発表者に言われていたので、他に質問が出ない時や、沈黙が続きすぎる時は、積極的に尋ねることを続けようとしていました。それは、この10年以上、こうして開かれた場所で人と話し合うこと自体の経験がなかったので、少しでも慣れる、という自分の目的もありました。
そして、休み時間になり、講義についての話題になり、いろいろと話をしていたら、面白いから後でしてください、などと、やんわりと止められました。もしかしたら、久しぶりに社会的な話題を話せることが、自分でも、思った以上にうれしくなっていたのかもしれません。
講義が再開し、話はさらに進み、ますます現場での大変さが染みてきた頃に、そういえば、と話をふられたので、その話題についてのことを考えつつ、言葉をつないでいったのですが、途中で止められたのは、話が長かったせいで、知らないうちに、内容が繰り返しになってきたことを、止められたことで気がつきました。
でも、まだ入ったばかりの人間に、これだけ話させてもらって、とてもありがたい気がしましたし、集中したせいか、ぐったりしていました。そして、相手に話が通ったことに、少し調子に乗る気持ちにもなりましたが、それは、それだけ、この10年で味合わなくてもいいような妙につらい事があったせいで、ああいう発言が出来たんだ、と思ったら、ちょっと悲しくもなりました。
だけど、この10年で、介護保険の「改正」時に、あまりにもおかしいと思い、「みなさまのご意見を聞きます」といった区役所で行われた小規模な「公聴会」のような場所など、いろいろな場所で発言してきたのですが、これだけちゃんと聞いてくれた場所は、初めてかもしれず、それが何しろうれしかったのだろう、と自分で思いました。学生時代、という限定はあるにしても、やっと居場所が出来たのかもしれません。
そして、ここから資格をとったとしても、古いたとえですが、ホントにいばらの道で、しかも卒業する頃は50歳を超えているという、世間的にはとんでもない年齢で、そう考えると、ちょっとさらにゆううつにはなるものの、今からでも何とか勉強を始められたのは、やっぱりラッキーだとは思いました。
講義が終わり、雨が降っている中を自宅に向かいました。
電車に乗り、今日はもう夕食は食べたのでヨーグルトを買って、午後11時ごろに家に帰ってきました。医療の現場でクライエントの面接を行いつつ、様々な人間関係にも配慮する、という事の大変さは、やってみないと分からない。と思い、そして、若くない自分に、そういう経験がつめるのだろうか、という不安もあり、年齢が気になるのは、周りが圧倒的に若いせいだと感じていて、そういう事にも、もう少し時間がたって慣れたらいいな、とも思いました。年齢の事は動かしようがないし、それを分かって、学校に通おうと決めたのですから。
壁の存在
昨日(4月21日)まで、わりと順調だったように思います。
今日は修士論文のための、研究ゼミの時間で、学生が2人しかいない少数の講義でした。そこで、最初のプレゼンテーションをする事になり、それなりに準備をして、その内容は、介護なので、妻にも聞いてみて、なんとかなるかも、と昨日までの、わりと順調だった流れの中で、少し楽観的な気持ちで3人だけの教室へ行きました。
大きな教室の隣の、ちょっとした隠し部屋のような、小ぶりな教室で、講義が始まります。指導教授が一人。学生は、私も含めて二人。かなりぜいたくなことですが、その教授は、二人しかいないのに、声を大きくしていないのに、もっと大勢の人数がいてもおかしくないような話し方をしています。開かれた気配を意識してつくってくれているようにも感じました。
そこで話をしていたら、まずはもう一人の若い同期の話の内容の論理的な事と、専門的な感じと、さらにはそこに対応していく指導教授の力を見て、なんだかとても届かないような、遠い存在になっていく感じがしました。専門的な知識も情報も考え方も、何より言語も頭脳の力も、すべてが足りないことを改めて思い知らされたのだと思います。
そして、介護者をテーマにし、インタビューをして、その心理についての研究にしたい、という自分の内容を話して、そこで出てきたのが客体化の話でした。そこで、その指導教授は、自身の介護の話などもしてくれて、そこで、やっぱり同じような周囲の反応というものがあって、そう考えると、テーマは介護でなくても、というような気持ちにもなってきます。
つまり介護まわり、というか、介護そのものでなく、その周囲との関係性みたいなものが気になってきたせいでした。かといって、終わりのないところにいる人間の心理というものかといえば、そこまで一般化してしまうと違うというよりも、社会にも、届きにくくなってしまうような気もします。
そして、内容を客体化する、ということになると、KJ法、とか、グランデットセオリーアプローチというような、ゴージャスな姿が売りのアメリカのプロレスラーの技みたいな名前を言われ、それなんですか?というような話をすると、人の語りを細かく切り、それを積み上げることによって、全体に共通するものを描き出す、という方法だという事を聞き、それを聞いた瞬間に人の思考や言葉を切ってしまうイメージが浮かび、その事で肉体的な嫌悪感が先に立ってしまい、たぶん、変な顔をしていた、と思います。
(今から考えたら、インタビューなど人の言葉を研究に使いたいという思いがある場合、少なくとも「質的研究」のことは勉強しておいた方がいいと思います)。
さらに時間は経って、その研究法はまだ置いておくとしても、介護がどう語られているか?を読んだ方がいいいと言われ、その手間をかける、膨大な時間が透けて見えて、ちょっとげっそりはしましたが、その後に、一緒に学ぶ同期の若い男性と話していたら、お世辞かもしれないが、興味は持てる、というような言葉を聞き、少し安心はしました。ただの、自己満足ではないかもしれない、と思えたからです。
講義のあと、とりあえずは図書館へ行ってみよう、と思い、初めてその館内のコンピューターで「介護」で検索をかけたら400冊くらいの名前が並び、そして、少しずつチェックして、3階へ行ったら、そこには介護の名前のついた本がけっこう並んでいました。
最初から、ここに来ればよかったかも、と思いましたが、介護関係の本がどこにあるか分かりませんでしたから、仕方がありません。そして、本をあれこれ読んで、6冊を選びました。
外は雨が降ってきました。気分は重くなる一方で、本は重いし、と思ったのですが、質的研究の本が閲覧室にあると聞き、行ったら、この前、「質的研究は大嫌い」と言っていた博士課程の先輩の若い男性がいて、少し聞いたら、一人の1時間くらいの面接記録を起こすのに2週間くらいかかるから、と言われ、単純計算で、もし30人のインタビューが出来たら、その分析に30カケル0、5で15ヶ月の月日が必要になって、とても2年では、間に合わないことになります。
それにしても、ぶしつけな質問に、その博士課程の男性は、親切に、自分の経験も交えて答えてくれて、とてもありがたいと思いました。
その博士課程の男性は、その手間について、自分自身が体験した上での「大嫌い」という言葉と知り、うわーっと心でつぶやき、さらに気も重くなり、いよいよ苦手な学問が始まってしまった、と思い、さらに暗い気持ちになり、帰ってきたら午後11時で、妻と話したら、大丈夫だよ、と言われました。
確かに、こんなのはぜいたくな悩みで、手帳を読み返したら、私が合格して、妻が泣いて喜んでくれたのを思い出し、がんばろう、と思いました。
最初の気持ちって、油断すると忘れるようでした。妻が就寝した後は、私が夜中の介護担当です。苦手なことでも、少しでも進めないと、この状況の中で仕上げていかないと、それも未来が狭くなると思いました。
ほんの少しずつでも、ちゃんと進もう。
そんなことを介護の合間に思いました。
電車
今日も冷たい雨が降り、昨日はあんなに暖かったのに、また冬のコートを着て電車に乗りました。
それまでは、ほとんど乗らない路線でしたが、10日ほど通っただけでも、駅からの風景に、いつの間にか、なじんでいました。
昼頃までわりとぐっすり眠ったせいで、車内でも本を読めました。昨日は帰り、質的研究の事でぐったりと暗い気持ちになっていたし、自分が当事者とか、弱者のグチみたいなものを語っていただけではないか。みたいな事も思っていたのですが、妻と話して、そうやって、指導教授が、自分の事も話してくれたのは、そうした(当事者の)人たちが、どうするか?といったことも、期待してもらってるんだと思う、がんばって、と言ってくれ何だかちょっと元気が出たので、その介護関係の借りてきた本を読んでいました。
そのタイトルは、なぜ老人を介護するのか?みたいな本質的な話に思えて、確かに西洋のある一部の国の介護に対して、というより、もう生産的でなくなった高齢者をどうしてみるのか?みたいな話が書いてあって、お、と思うような事もあったのですが、さらに読み進めるうちに、客観的という名前のもとに対象と距離を取りすぎているのでは、などとも思い、だけど、こうした書籍によって、微妙に、今も介護を続けている当事者との(自分自身ですが)距離がとれるようにもなってくるかもしれない、という期待もありました。
そうすれば、当事者である事を生かせるような方向へいけるのかもしれない、というような気持ちにもなりました。大学に着いて、学食で授業前にカロリーメイトを食べていたら、クラスメートの若い同期の女性が来て、しゃべりながら、そして、教室へ向かいました。
今日は発達心理学の話で、ある発達障害の子供の記録を元に、討論をしつつ授業をすすめていく形でした。恥ずかしくても、気が進まなくても、聞きたいことを聞いて、話をし、もしかしたらでしゃばっているような感じに見られたかもしれないのだけれど、でも、元をとらなきゃ、という気持ちと、そういう関わり方をしないと、本をおとなしく読んでいるだけだと、とても理解も記憶も出来ないと思っている妙なあせりもあったせいでした。
でも、そうやって積極的に関わっていくと、学問とはけっこう楽しいものだと、ほとんど生まれて初めて、少し思いました。さっき学食で会った若い同期の女性は、こうした逡巡とは無縁のように、かなりもっとしゃべっていましたが、それは臨床心理学部を卒業したベースがきちんとあるように思えました。
そして、次の講義の時は、私がレポートを出して、そして、発表をする事になってしまいました。いろいろしゃべったから、それで指名された、という事もあるかもしれません。だんだんと課題がつもってきていて、やる事が増えてきて、他の事が出来なくなってくるかも、などとも思いました。
帰りの電車の中で若い同期と途中まで一緒でした。
いつの間にか、「おとうさん」扱いになっていましたが、そういう関わりも、昔自分が若い頃に、年長者に対してそういう接し方をしたことがあって、その事を思い出し、それでなんともいえない気持ちになったのは、思ったよりもいつの間にか時間がたくさん経っていた、というような実感、というものだったのかもしれません。
そして、その同期が住んでいるところが、妻が通っていた高校のかなりそばという事が分かり、そのことを少し話したら、すごく興味をもたれ、「奥さんが飲み会に来ればいいのに」みたいな話になって、続けて「おかあさんみたい」と言ったので、「それじゃ怒るかも」と伝えたら、「じゃあ、お姉さん」という話になりました。
帰って、妻にその話をしたら、それでも興味を持ってくれていました。だんだん学生生活、という感じになってきて、楽しい部分も増えてきて、ありがたい気持ちになっていました。
帰ってからは、90歳を超える義母(妻の母親)の、夜中の介護をすることは、変わりません。
研究方法
4月23日。今日は、初めての講義の最後、という言い方は変ですが、一回り目のラストの授業でした。これで、自分が履修したすべての講義は一通り受講したことになります。
臨床心理学研究、という科目で、最初は金曜日に授業を入れるのをやめようと思っていたのですが、質的研究は、インタビューを論文に入れるのならば必要だという話も聞き、それならば、たぶん自分にとっても重要になるだろうと改めて思って、履修しました。
出かける前に、副手の方から、「今日までが履修申請の最終日です」というメールが来て、ちょっと怖くなって、もう一度、確認をして、大学に出かけて学食に着きました。
ビルの1階の、ガラス張りの広いスペース。そこで、丼ものを食べました。日によって中身が微妙に変わるみたいで、今日はロコモコ丼でした。
配膳の場所で、スタッフに、冷ややっこか、ひじきがつきますけど、と聞かれて、冷ややっこを選び、一人で黙々と食べていて、誰か知っている人が来るかも、と微妙な期待を持っていたのですが、待ち合わせをしたわけでもなく、この講義を誰が履修しているのかも知らないので、一人で、食後にアイスも食べてから教室へ向かいました。
そうしたら、思った以上に、かなりの人数がいる教室で、みなさんにあいさつをしました。かなり顔を知っている人が増えて、少し居心地がよくなってきたのですが、隣に座っていた大学院の2年生の方が親切にもいろいろと教えてくれて、もし1年間伸びてしまうと、学費が100万ですから、と言われ、あせったり、それでも修士論文が伸びてしまう可能性もあるのだろうか、などと冷たい気持ちになったり、100万円を余分に払ってしまう可能性まで考えて、もやもやしていたら、すっとさりげなく教授が来ていました。
自己紹介をかねて、質的研究の事を少しだけしゃべる、という事になり、昔、マスコミにいたのでインタビューという言葉にはかえって心が乱れるでこと。自分の論文のテーマである介護のこと。そして、それを研究ゼミの指導教授から「おもしろいと思うけど、質的研究を客体化のために学んだ方がいい」と言われてきました、的な事を言いました。
さらには、私がダメでもそれはマスコミ界が悪いのではなく、私が悪いので、という事でお願いします、みたいな事を言い足しました。特に反応もなく、なぜ、そんなことを言ってしまったのかいうと、もう10年以上前に仕事を辞めてしまったと言っても、マスコミ業界で働いていたことに対して、どこか感謝の思いがあったことに改めて気がつき、同時に、話をしながら、どうして、論文のことについて「おもしろい」となどと、自分で自分のことをほめるようなことを、言ってしまったのだろう、などと後悔もありました。
講義は、もっと厳密さが表に出ていると思っていましたが、それよりも幅が広い方向でした。質的研究というものの目指す方向とか、考えが賛同できるものだったし、まだ発展途上という事で、もしかしたら新しいやり方を(学生が出来るわけもないのに)開発してしまえばいいんだ、的な事を思えるだけで、ちょっとうきうきした気持ちになりました。
帰りの地下鉄は、同期の女性と途中まで一緒でした。
なんだか自分の話をしてくれたので、私も自分の話をしました。まだ10日くらいしかたっていないのに、少し距離は縮まったような気もします。
明日は早い。土曜日はつらい。そして、明日が終わって、講義が始まって、やっと2週間がたちます。
それでも、4月は、まだ1週間あります。こんなに長い1ヶ月は久々かもしれません。いつ以来か思い出せないほどでした。
それでも、まだ胃の調子がちょっと悪くて、ちょっと心配ですが、それだけ自分が思っている以上に、緊張の日々でした。
今日も帰宅は、夜中の11時くらいになったのですが、そこから夜間の介護です。
試験
この1週間くらい右の鎖骨のあたりから首筋にかけて、時々、ぴりぴりとしていて、神経がそうとう疲れているんだな、と分かりました。
今日(4月24日)まで1週間、毎日、講義があって、すでに10年前にライターの仕事を辞めていますから、有効かどうか分かりませんが、普通にしていると消極的なので、ひそかに「取材モード」にしていました。
おそらく押しつけがましいくらい積極的に見えているんだろうな、と思いつつ、講義が終わるとかなり疲れているのですが、でも、学問というものをしているのに、けっこう楽しい気持ちは続いていました。
今のところ自分に向いているのかもしれない、とも思う時もありますが、理論みたいなものが出てくると、やっぱりダメかもとも思いつつも、このあたりの発想を自分としてはプラスの意味でつかめれば、という気持ちにもなります。それは、理論というものから、自分のやっている介護などの事を見ることができたら、その客観的な作業は無駄にはならないと、自分自身では思いたいようでした。
ただ、土曜日は朝が早く、午前9時半には出なくてはいけないから、かなりつらいのは変わりません。通常でしたら、遅いくらいの時間だと思いますが、夜間介護が毎日続く私としては、就寝時間が、このところは午前4時半過ぎになり、さらに、少しずつ遅くなってもいるので、土曜日だけとは言っても、これが毎週のように続くのですから、年齢的にも体力は不安もありますし、やっぱり憂うつな気持ちにもなります。
眠いなー、と感じながらも電車に乗り、座れたので、少しでも眠ろうと、寝過ごさないように、腕時計のバイブ機能をセッティングしたのですが、ほとんど眠れず、設定した時間になっても、バイブも揺れないと思ったら、AMとPMを間違えていました。
講義のある教室は、新しい校舎の中で、他の学年というか、学部のもっと若い人間もたくさんいるような場所で、キャンパス、という感じがしています。でも、眠い。そして、講義については実践家の方々を招いて、そして、事例を発表して話し合うというかなり魅力的なものだったのですが、午前10時スタートが何回もあって、中には午後から実習の日もあって、この日は休もうと早くも決めている日もあって、発表もしたいけれど、午前だったらほとんど使い物にならないし、と自分で思っていて、なんだか勝手に残念な気持ちになりました。
最後の方で演習のような形で、クラスメートを相手に一対一のペアになって相手のことを話すというトレーニングような内容になりました。そうやって、私自身のイメージを話してもらうと、いろいろ人生を経験して、疲れているけれど、いろいろ背負って、それでもポジティブなパワーを送ってきてくれる、とかなり気をつかったとも言える事を最初の人は言ってくれました。
そして次のペアは、この大学院に来て、一番最初に声をかけてくれた同期の人で、私の中にある激しいものを牙と表現してくれて、恥ずかしくもあったのですが、ちょっと注意深く見れば、かなり分かりやすく、感情的な部分が見えるんだな、と思いました。そして、その同期の男性は、最近の身内のご不幸のことまで教えてくれました。
講義が終わってから学食へ向かいました。今日は一人でした。ガラス張りの広めのスペースの学食は、夜とは違った感じに思えました。
今日はこれから、英語の試験です。ここの大学院は、社会人の入試は、臨床心理学だけで、英語の試験はありません。そのかわりに、入学後、英語の試験を行い、規定の点数に達しない場合は、英語の講義を受けることが義務付けられていました。もちろん、さらにお金がかかることになるので、それもあって、なんだか緊張もしています。
食事をして、眠くて英語の勉強をしていたのですが、あんまり眠いので、眠る場所を探して、新しい校舎の1階のラウンジのすみっこで少し居眠りをしていました。そしたら、その場所のそばに、同期の男性のほぼ全部がロールシャッハの勉強をするためにやってきて、少し話をすることになりました。気持ちの距離がかなり縮まっているようなので、それが、うれしい気がしました。
40歳を超えて、大学院で学ぼうと思った時に、それまで何かのテレビ番組で、私のように、周囲よりもかなり年齢を重ねた人たちの様子を見ることがあったのですが、若い学生から、かなり気を使われて「お客さん」のようになっている人もいました。それは避けたいと思っていたので、難しいかもしれませんし、年齢差はどうしてもありますが、なるべく同期としてフラットな関係になりたいと思ってきました。
気のせいかもしれませんが、少なくとも「お客さん」にはならないような努力は、少しずつ実を結んでいるように思っていました。
それから英語の試験会場に行きました。そして、まだ入ったことがないような、イスがやけにゆったりとした場所で、きっちりとしたスーツを着た女性が一人で試験官をつとめてくれて、試験が始まりました。
そこには、同期の、いわゆる社会人入学をしている人たちが集まっていました。ほとんどが、働きながら、それも心理関係の仕事をしている人が多数でしたので、ここでも、勝手に差を感じていましたが、1時間の試験は辞書持ち込み可ということもあって、そこそこは出来た、と思いました。
終わってから同期の方々から、落とす試験じゃないよね、という言葉が出てきたので、勝手に安心感を募らせ、これで補習を受けなくてすんだらホントにラッキーだとも思いました。
さっきのラウンジへ戻り、ロールシャッハの勉強をしている同期の方々と、聞かれたので、何となく、自分が勤めていたスポーツ新聞社の話をして、少し珍しがられ、こうしたキャンパス内に、立派な建物の中に、学生が自由に使っていいようなきれいな場所があり、その中で、雑談もできる豊かさを感じていました。
その後に解散し、途中の駅で降りて、古本屋も行ったら、古い格式のあるホテルみたいな敷居の高い立派な古本屋もあって、そこはかなり威圧感を放っていたのが新鮮でした。今まで、こうした場所に来たことがない自分は、本当に教養のようなものと縁遠かったのだと、改めて感じます。
それから、さらに三省堂へ行き、この前話に出た本を、価格は高いけれど買って、この瞬間、10年以上仕事もしていなくて、収入がないことに変わりはないので、お金が出ていく時は、この先大丈夫だろうか、みたいな事も思って、怖さも出たのですが、でもこれからの自分のために、と、自分に言い聞かせるように買いました。
なんだか本好きに近づいた気がします。
帰りの電車内から、講義に必要な太宰治の御伽草子を読み始めたら、自分が読んだ気になっていて、でも読んでいないことに気がつきました。才走る、という言葉が似合いそうな文章でしたが、何しろ、この人も若くして亡くなってしまったので、今の自分よりもかなり年下の時の文章で、自分がトシをとった感じが再びしたのですが、なるべく気にしないで、なにしろ毎日ベストを尽くそうと思いました。著者の太宰治にとっては、迷惑な決意かもしれません。
帰ってきて、まだ夜も早い時間だったので、久々に妻といっしょに夕食を食べて、テレビを見て、少し昼寝をして、そのあとに今後のスケジュールを見て、土曜日がつらいな、と改めて思いました。それでも、なんとかがんばろうという気持ちも同時にあります。今は、すごく恵まれているのですから。
2週間
4月25日。日曜日は、さすがに大学院も休みです。
講義が始まって約2週間が過ぎました。
ものすごく長く感じました。
時間が、とてもゆっくり流れています。
講義で、人を相手にした実践的な内容だと、取材みたいで楽しかっのですが、分析とか、論文とか客体化、となると一気に気持ちが重くなり、若ければ、やはり自分の苦手なことも経験なので取り組むべき、という事も言えますが、この年齢になると自分の適性はもうほぼ分かっているというか、もう違うやり方に慣れていく時間はない、という気持ちになります。
自分のいいところで何とか勝負するしかない。ただ、主観的で、個人的で感情的であっても、それを生かして、研究の調査のためのインタビューは大丈夫ではないだろうか、と思っているのですが、同時に、そんなことを思っていると足下をすくわれるようにも感じています。
何しろ、早く、家族介護者の方々に、ちゃんとインタビューをして、それをどういう形にするか、という事をでもきちんと考え、というような事を思ってはみるけれど、でも時間がない、という気持ちであせってしまってはいけないとも思っています。
ただ、ここまで考えるだけでも、修士論文のことでは、混乱しているのが分かりました。
まだ、というか、今も介護をしているのですから、介護に関わる話をすると感情的になり、それは以前と比べたらものすごく冷静になったとはいえ、人から見ると十分以上に感情的だと思います。何しろ、今も家族介護者の当事者だから、いろいろと読んでみた方がいい、というのは、客観的になるべきということでもあり、さらには、確かに、これは本当に介護をテーマにすべきなのか、という思いにも時々なります。
指導教授の言ったことは確かだったと思いつつ、あの冷静さと頭の良さが、時々こわくなり、みたいな部分もありますが、だけど、妻が、そうは言っても期待しているところがあるんじゃないの?とも言われたことを一応の支えにしていこうと思いつつ、そして、担当教授も初めて修士論文の指導というような事をしているわけで、その時に私のような生徒がいるというのは、ある意味で、災難かも、みたいに思いました。
ただ、結果として、いい論文、といわなくても最低限、論文としての形をきちんと成立させ、そして、自分が伝えたい、という事がきちんと盛り込まれ、ものすごく欲をいえば、これからの介護のことを考える際には、ほぼ必ず引用されるようなものにしたい、と思っていました(それは無知なことであり、修士論文にするだけではなく、引用されるには、ジャーナルと言われる専門雑誌への掲載という高いハードルが必要なのは、少し後に知るのですが)。
そういえば、若い時、大学の学部は法学部で、卒論が必要ないということで選んだ部分もあり、だから、論文というものに縁がなく、それで、今になって、修士論文というものを考えるだけで、まだ始まったばかりなのに、混乱していました。
(私のように、論文に慣れていない人にとっては、こうした書籍↑も参考になるように思います)。
どうして、論文を書こうとしているのか。
介護をする人が必要以上に追い込まれることが少しでも減るために、という気持ちがベースにある。でも、論文、という形式のきちんとした文章の事を思うと、ちょっとというか、かなりゆううつで、すでに、そのためにもう1年伸びてしまうかもしれない、という気持ちにもなり、そうしたらあと100万円円かかる、と思いつつ、そのお金を使ってもいいから、ちゃんとした論文を書きたい、という気持ちもどこかにあり、その予感があたるのは嫌だけど、何しろ論文もちゃんとしたものを仕上げ(ちゃんと、って何?とも思うけど)、その上で資格もとって、きちんとしたプロになりたい。
そして、もしどうしても、その論文では納得がいかない部分が出てきたとしたら、自分の原稿として再び書いて、それをまた世の中に伝えようという決意まで、なんでだかありました。ただ、そうなった場合に、自分で書いたはいいけど、どこにも認められず、という事になる可能性もあるのだし、今回の論文は一応、オープンなのだから、少しでも伝わるように書くべきだ。
こんなことが、介護の合間にも、頭の中で回ってしまい、それでも、とにかく、休まず進んでいこう、と改めて思いました。
なんだか、講義がないのに、忙しくなっていました。
(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえると、うれしいです)。
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