『「介護時間」の光景』(130)「よっぱらい」。11.3.
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年11月3日」のことです。終盤に、今日「2022年11月3日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
ずいぶん前の話ですみませんが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前の違う病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。それが2001年の頃でした。
それでも、毎日のようにメモをとっていました。
2001年11月3日
『かぜ、またひいた。
気持ちが悪くて、調子が悪い。
予定していたことができない。
母のシューズを買おうとして、何かうまくいかなくて、ものすごく心細くなる。
なにか、何もしたくなくなる。
そうこうするうちにも、入院費で、1日のかなりのお金が確実に減っている。母の預金だけど、いつまで持つか分からないし、自分の未来も確実に削られている。
どうしよう。
そんなことは妻にも言えない。
夜中に実家のお金が尽きたあとのことを考えて、怖くなる。
このまま入院を続けられるのだろうか。家には義母もいるし、どうやってみていけばいいのだろう。
どうなっても地獄だった。
それで、もし義母も身体的なことだけでなく、さらに認知症になったら、そして他の身内が病気になったとしたら、そんな想像が止まらなくなって、怖くて、しばらく眠れない。
母が死ねばいいのに、と思ってしまう。
なんだか、ものすごく削られている。
病院に着くと、母はぼーっとしている。
「昨日は、靴持ってきてもらって」と言ってくれたのだけど、それは、もう3日ほど前のことだった。
そのあたりは記憶が混乱しているようだった。
おやつとして、最中を持っていった。
「思いがけず」といってくれたのだけど、確か、ついこの前持ってきたばかりだった。
少し寂しげに見える。
そろそろ寒くなるので、病院の着ているものの上に羽織れるように、ジャージを持って行った。喜んでくれた。
食事は、午後5時35分から。
20分で食べ終わる。
すぐにトイレへ行く。
病室にあったメモに応援歌が書いてある。確か、病院の中で運動会のようなことをする予定だった。
「今日も練習したのよ」と、話をしてくれた。
ちゃんと覚えていた。
今日も、持って行った雑誌の花のあるページを3冊開いている。
それを並べている。
午後7時に病院を出る。
外は、もう完全に冷たい雨だった。
病院のそばで妻に電話をする。
まだ自分の脇腹が痛い。その痛みは、嫌な感じだった。
病院にいるとき「2時間も大変ね」と、母にまた言われた。
何かの時に、そのくらいの時間をかけて、病院に来ていることを伝えたら、時々、思い出してくれるようだ』。
よっぱらい
帰りの電車の車内。夜の8時30分くらい。
乗り降りするとびらのところの床に、30歳くらいの男性のよっぱらいが座りこんでいる。横1列の長い席の一番端に座っている中年女性に、なにか話しかけている。相手をされていない。でも気にする感じもなく、ぐだぐだしている。恐い者知らずの状態に近いのかもしれない。私は酒を飲めなくなったので、そのぐだぐだがうらやましく思える。
次の駅に着いたら、ふらふらとしながら、バランスをあやうくとって、立ち上がり、ドアが開いたら、踏み出して一応、普通に歩いていく。
さっきまでのぐだぐだ感をたっぷりと残しながら、階段も少し登ったら、ホントにちょっとだけ登ると、鉄の手すりに寄りかかっていた。落ちなきゃいいけど。無防備で、めちゃくちゃで、でもなんでだか歩けている、あのバランス感が、なつかしい。よっぱらいにしか、出来ない事かもしれない。ちょっとうらやましい。
(2001年11月3日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格もとった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2022年11月3日
晴れていい天気だった。
秋晴れという言葉を使いたくなる青空。
洗濯機を回して、洗濯物を干す。
クロアゲハ
庭のルリマツリが薄い紫の花を咲かせているけれど、そこに黒い大きめのチョウがきて、羽をはばたかせながら、花の蜜を吸っているようだった。
羽の下にだいだい色の模様が見えるから、クロアゲハのようだった。
ルリマツリの花の、一ヶ所ではなく、あちこちに落ち着きなく、さまようように蜜を吸って、時々、庭の外へ行きそうになって、またルリマツリに戻ってくる。
それをしばらく繰り返していて、10分くらい経ってから、どこかへ去っていった。
そこにある花の蜜を全部吸うのではないか、というくらい必死なチョウの姿は、あんまりみた記憶はなかったけれど、妻は、ルリマツリの蜜が美味しいのかも、という感想だった。
人間には分からないけれど、本当かもしれないと思った。
柿
庭の柿の木は渋柿だから、加工しないと食べられない。
そのままにしておくと、色づいて、熟して、鳥が来て、そのうちになくなる。
今年は、渋柿でも欲しい。干し柿にして食べたい。と言ってくれる人がいたから、この前は50個以上とった。
柿の実をとっていて、実は、今年は柿の実は豊作なのではないか、と感じていたら、他の人も、柿が欲しいと言ってくれる人がいたから、さらに取ることにする。
天気がいいから、そして、この前は庭から高枝切りバサミを使っていたから、今日は2階の窓からとろうと思っていた。
午後になり、妻が新しいシューズを履いて、足が軽いと言って笑顔だったので、こちらも嬉しくなる。そのまま散歩に行って、帰ってきてから、柿の実をとる作業を始める。
作業
部屋に、妻が新聞紙などを敷いて、とった柿を置く場所を用意してくれた。
窓から高枝切りバサミを出して、狙った柿の実をとる。
切ると落ちる。
何度も、ただ下に落ちていって、そのうちに、どんなふうにすればいいのか、ちょっとわかって来て、柿を切って、柿をはさんだまま、部屋の中であとずさりをして、ハサミの先の柿の実を新聞紙の上に置いていく。
柿の実の目星をつけて、ハサミを伸ばして、どの枝が、どの柿につながっているかを確かめて、はさんで、力を入れて切る。
そのまま下へ落ちて、場合によっては、屋根にあたって、大きめの音を立てて、庭に落ちていくときもあれば、うまくはさまったままの状態を保ちつつ、部屋の中を後ろに下がって、ハサミを窓から部屋の中に入れて、そこで放して、紙の上に置く。
その作業を繰り返して、高枝切りバサミを支える左腕の方が、だるくて、だんだん動かなくなってきた。
それでも、枝の上の方の柿は大きく、色もきれいに見えているから、もう一つでも多くと欲が出て、1時間近くが経っていた。
とても高い場所、それも、2階の窓からでも遠い場所に、まだかなりの数の柿が見えるのだけど、でも、もう届かない。
作業を終えた。
妻は、切った枝をきれいに整えて、欲しいと言ってくれた人に届けに行った。
もうすっかり夕方で、少し暗くなってきた。
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