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『「介護時間」の光景』(105)「駅」。4.20.
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2001年4月20日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います)。
自己紹介
元々、私は家族介護者でした。介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
ただ、そうした支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
それは、分不相応かもしれませんが、介護をしながら、学校へも通い、臨床心理士の資格を取りました。2019年には公認心理師資格も取得しました。現在は、家族介護者のための、介護相談も続けることが出来ています。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年4月20日」のことです。終盤に、今日「2022年4月20日」のことを書いています。
(この「介護時間」の光景では、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
今から21年前のことです。
ずいぶん前の話ですみませんが、母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。仕事もやめ、帰ってきてからは、義母の介護をする毎日でした。
入院してもらってから、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、またいつ症状が悪くなり、会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
ただ、介護をして、土の中で息をひそめるような毎日でした。
それでも、毎日のようにメモをとっていました。
2001年4月20日
『夜中の2時か3時まで、ごとんごとんと台所で音がして眠れなかった。
午前7時前に電話が一度だけ鳴って、切れた。
それで、起きて、また寝たら、午前9時に、「あーれー」という義母の声。
その後、妻がすぐに見に行って「きゃー」という切羽詰まった声を出していたので、慌てて下へ降りて行ったら、特に何事もなく、それで妻に心配されたけれど、その声が、夢なのか、外からの声だったのか。自分でもよく分からなくなった。
なんだか、もう一度寝たら、今度は起きたら12時になっていた。
出かけようと思っていたのだけど、やめた。
今後は、自分の心臓の病気のことも含め、真剣に考えないと、この先に無駄死にが待っているとしか思えない。
午後4時30分頃、病院に着く。
母は横になって寝ている。
「体操してない」
でも、手を動かしていて、「さっきやったばかり」とすぐに違うことを言う。
「目薬は、さしたことがない」と今度は急に言ったので、「昨日は、夜にしたよ」と言うと、また突然、「さっきした。昼ごろ、さした」と言うので、記憶の蘇りが、もしかしたら、少し良くなっているのではないか、と希望を持ってしまう。
そんな気持ちになった途端に、「お風呂には、全然、入っていない」と母は、繰り返し始める。それでも、表情自体は、少し落ち着いてきているので、それで、こちらの気持ちも少し穏やかになる。
午後7時頃、病院を出る。
今日は、病院の送迎バスに乗る。
母は、「今日が何日かぜんぜん分からない」は同じように言っていた。
今日も、おしめをしていない状態になっていて、それはありがたかった』。
駅
駅に着いたら電車が行ったばかりだった。
地元の私鉄の小さな駅。ここからは見えない隣の駅に向かって、電車が走っていく。
ホームに入ったら、誰もいない。一人もいない。線路をはさんで、向こうのホームにも一人もいない。ついているのか、ついていないのか。ここのところ運や不運について考える事が多くなった気がする。こういう状況って、けっこうあるんだろうか?
(2001年4月20日)
この生活は、ずっと続いたが、2007年に母が病院で亡くなり、「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格もとった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2022年4月20日
昨日、妻と一緒に病院に行った。
ちょっと調子が悪いと聞いて、勝手に心配で、ついていった。
どうやら、それほど重くはないけれど、息が詰まるような感覚が続いていて、それに対して漢方の薬を処方されていた。
帰りには、隣町のスーパーで買い物をして、あとは「お疲れ様」のコンビニスイーツをおごり、家に帰ってきて、一緒に食べた。
コロナ禍が長くなり、戦争まで始まり、世界の空気がこれだけの閉塞感と緊張感で包まれてしまっていては、幸いにも、今は平和に暮らしているとは言っても、気持ちが晴れ晴れするのは難しい。
だから、妻の調子の悪さも、仕方がないことだと思いつつも、そうであれば、もう少し気持ちを楽にできることはないだろうか、と考える。
タケノコ
午前中に、録画していたテレビを妻と、作業をしながらも、一緒に見ていた。
最近、こうして街で食べたり、飲んだりする番組が増えたように思うけれど、確かにマスクもなしに酒場で飲んで、しゃべっている姿は、すでになつかしいものに感じる。
そうしたら、チャイムが鳴って、ご近所の方が来てくれていた。
両手で、少し重そうなものを新聞紙に包んで持っていて、渡してくれたのは、タケノコだった。一緒にぬかもつけてくれている。お礼を伝えた。
立派なタケノコだった。
妻は、さっそく煮込まないと、と言って、その作業を始めていた。
そして、昼食は、タケノコを含む春の野菜の天ぷらと、そばを作ってくれて、美味しく食べた。
ありがたかった。
手続き
今日は、雨がちの一日らしい。
それでも、あちこちに花が咲いていて、今日も、庭にひっそりとハナズオウが咲き続けている。
午後に近所に出かけた。
雨が降りそうなので、折りたたみカサを持っていく。
銀行で通帳記入をして、郵便局でも通帳記入とか、お金を下ろした後、その後の手続きがあるので、いったん局内のイスに座って荷物の中味を整理する。
それから、二ヶ所の年会費などを払い、さらに、この前来ていた定期預金のお知らせを緊張しながら出して、結局は、満期になっただけで、ほとんどの金額を、またそのまま預けることにして、持って行った、普段はあまり使わないハンコを緊張しながら押した。
そのあと、郵便局の中のイスに座って、手続きに使った様々なものや、もらった書類も隣のイスに上に並べて、整理してから、そこを出た。
いつもはしない作業をして、頭がパンパンになっていた。
さらに、電話などの公共料金も締切が迫っているので、今日来たばかりのも含めて、5カ所の分をまとめて払うと、さっき、生活費で下ろしたお金が、かなり減る。
そこから、スーパーに寄って、ドリンクなどを買って、戻ってきた。
事務的な作業は、とても苦手なので、こうしたことだけで、なんだか疲れて、家に戻る。
バナナ
妻が、おかえり、と言ってくれて、そして、おやつを作ってくれた。
キャラメルを溶かしてソースにして、焼いたバナナにかけてくれる。
この前、テレビでやっていたメニューをさっそく試した、という。
おいしかった。
薄曇りで、雨が降りそうな天候は続いている。
(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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