『「介護時間」の光景』(173)「座席」。9.11.
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。個人的な経験にすぎず、細切れの記録になってしまいますが、それでも家族介護者の理解の一助になれば、と考えています。
今回も古い話で申し訳ないのですが、前半は、23年前の「2000年9月11日」のことです。
終盤に、今日「2023年9月11日」のことを書いています。
(※この「介護時間」の光景では、特に前半の昔の部分は、その時のメモを、多少の修正や加筆はありますが、ほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2000年の頃
個人的なことですが、私にとっては、1999年から介護が始まりました。母の精神的な症状が突然、発症しました。最初は2月。しばらく入院したら、よくわからないうちに回復しました。そして、次は7月に再び発症しました。
いつものかかりつけの内科医は、血液検査もせず、認知症と診断しました。その後、精神科の病院へ転院しましたが、そこで、血中アンモニア濃度が異常に高くなっていることが分かりました。
精神科の病院で、その治療のために、内服薬を飲み始めたら、二週間ほどで、嘘のように通常のコミュニケーションがとれるようになり、退院しました。それから約1年、実家で母親をみていましたが、2000年の夏頃、母の症状がまた重くなり、再び、母のかかりつけの病院に入院しました。去年の見落としに関しての謝罪も何もないのですが、母親自身が、やたらと信頼していて、他の病院に行く決断ができませんでした。
ただ、病院からは、昼も夜もなく電話がかかってきて、動いてしまう母の症状への対応に、過大なプレッシャーなどをかけられました。結局、私が、母の病室へずっといることになりました。病院のスタッフからは、とにかく迷惑をかけないでください、といったことしか言われませんでした。
ここまでの1年間の疲れもあったかと思いますが、ほとんど眠れない日々が2週間続く頃、私自身が、心房細動の発作に襲われ、「過労死一歩手前」と言われました。その時に、病院のスタッフからは、「大丈夫ですか」の一言もありませんでした。私は、その日は付き添いができなくなりましたが、「今日、みてくれる人はいませんか?」ばかりを、繰り返し看護師からは言われました。妻は、夫(私ですが)の病気で心配な上に、そのことで責められるように言われたと、涙を流していました。
それでも、とにかく24時間体制で付き添いをつけることを条件(その当時は、家政婦で、表立ってではないのですが、その仕事を依頼する方法がありました)に、やっと入院の継続を許可されているような状況の中で、早く出ていってほしい、というプレッシャーをかけられていました。
精神的な症状の高齢者の長期入院が可能な病院を探し、母の病室にいながら、自分の心臓に不安を抱えながら、いくつか病院をまわり、やっと母に合うと思える病院への転院が決まりました。
それで転院したのが8月30日でした。私が車の運転をしてやっと移動できました。
それから、2週間も経っていない頃で、やたらと不安で毎日のように病院へ通っていました。
2000年9月11日
『病院に行くと、母は食堂でテレビを見ていた。
肩を叩くと無反応だった。
もう一度叩いても、同じだった。
3回目で、反応があった。
まだ、こちらを見て、ようやく、自分の息子だとわかっているようだった。
立ち上がって、自分の部屋へ戻る。
トイレに行って、おしっこしてから、レバーをどうするか。そのことを母は、何度も聞いてくる。押せば大丈夫。と言っても、何度も同じことを聞いてくる。
こだわっている、ということかもしれない。
そういえば、表情が不満顔のように固まってきた。本物の痴呆(※当時は、まだ認知症とは言われていませんでした)になってきたのだろうか。よくわからない。
昨日のことも完全に忘れていて、今日の昼のご飯のことも覚えていない。
トイレに行って、部屋に戻れない、と妙に怯えて繰り返すから、迎えに行って、部屋に戻ってくる。
今日は雨がひどくて、最寄りの駅に着いたとき、タクシーは珍しく30人以上列になっていた。水が道路にあふれているらしい。バスに切り替える。それでも、いつもよりも5分ほど遅れて着いたけれど、でも母は昨日と同じで、ぼんやりとしているけれど、急にこだわって、不満顔が固まりつつあって、記憶がない。
午後5時30分から食堂へ行き、30分ほどで食事が終わる。
部屋に戻ってきて、部屋の中をどう歩くかを、ずっと何回も確認して、歩いている。そんなに広くない病室を繰り返し確認している。感覚的に、どうこう、と言っているのだけど、途中から意味がわからなくなった。
「あ、違った。テレビにたどり着くには、パンパンパン、と聞こえるわけ。自分でね」
「明るいうちに、しなくちゃ」
「ベッドにたどり着いちゃうわけ。暗くなってね」。
いろいろと尋ねてみて、こちらも何か手を貸したいのだけど、何か、わからない答えが返ってくるだけだった。
午後7時頃、少し落ち着いていたようだったのに、急に「あ、そうか。ロビーに行けばいいのね」と、せっかく横になっていたのだけど、起き上がって動こうとする。
また徘徊が始まるのか。
「あ、そうか。あそこでじっとしてればいいんだ」
それで、また起きようとするから、何か言葉をかけて、少しは落ち着いてもらったのに、また動こうして、なんだか頭に来てしまった。
トイレに行くときも、段取りがうまく行っていないので、ついて行って手伝うしかない。何度もそれが続くと、嫌がらせのように思えてくる。
ここまでずっと、これが続いてきた。
「あ、そうか」と言うたびに、言いようもなく、その伝わらなさや分からなさも含めて、どうしようもなく、ふと頭に来ることもある。
どう対応しても、何かすべてを無視されているような気持ちになる。
「でも、明るいところにパン、でいいのよね」と、やけに強めに主張してきて、そして、自分で手を叩く。
「パン、で帰ってきたから」と言いながら、部屋にいるのに、もう一度、トイレに戻ろうとベッドの手すりにつかまって立ちあがろうとするから、「大丈夫だよ」と言いながら、その動きを止めようとした。
だけど、手を何度叩くかについて、ずっとこだわっていて、それについて、どんなことを言っても、何度も何度も何度もこだわり続けて、本当に嫌になってくる。
午後5時頃にここに来て、午後8時10分くらいに病院を出ようとする。
4階の出入り口には、車イスに乗っている高齢女性がいて、「おにいさん、これはずして」と言われる。車イスにつけられた、転倒を防ぐためのひものようなものを言っているようだ。
手を握られて、その手はとても温かい。
時々、涙を目にためて、何度も同じことを訴える。
どうすることもできない。
そう思っていると、急にその人が「放っておいて。看護婦さんがくるから」と大きな声で言われた。
なんだかメチャメチャぐったりして、動くのも嫌でタクシーに乗って、駅まで行った。家で、遅くなっても食事をしようと思う。なんだか、動けない。なんで、こんなに消耗するのだろう』。
座席
電車向かい合わせで、2人ずつで4人掛けの座席。
少し郊外を走る電車。
向かい側の乗客と、ほとんどヒザがつくくらいの距離。
その席に、でも今は誰もいないから、1人で座っていた。
駅に着いたら、4人の女子中学生が乗ってきて、3人が私と同じ座席に座って、1人がそばに立っているから、囲まれた格好になった。
元気だったら、席を譲っているけれど、今日はすごく疲れていて、立つ気力がない。ずっとうつむいて、気持ちがふわふわしている。
彼女たちの会話が面白く思えなかったのは、自分の気持ちに全く余裕がないせいだろう。
(2000年9月11日)
それから、母の病院に通って、自宅に帰ってからは、義母(妻の母親)の介護をする日々が続いた。自分の心臓の病気のこともあり、仕事はやめざるを得なかった。
そんな介護に専念する生活が続き、感覚的には永遠に続くようにさえ思える時もあったが、2007年に母は病院で亡くなった。そのあとも、義母の介護を妻と一緒に続け、その合間に勉強をして、2010年には大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得した。
介護を続けながら、「介護者相談の仕事」も始めることができたが、2018年の年末に、義母は103歳で亡くなり、介護生活が終わった。翌年には、公認心理師の資格も取得した。その後、体調を整えるのに、思った以上の時間がかかり、そのうちにコロナ禍になっていた。
2023年9月11日
また暑くなって、天気がよくなってきたので、洗濯ができる。
そんなことばかりを考えている気もするけれど、洗濯ものが溜まってきていたので、雨があがったのは、ありがたい。
結局、3回洗濯ができた。
妻は歯医者に行って帰ってきた。
買い物もしてくれた。
変異株
こうした変異株のことは、すでにあまりニュースにはならない。
だけど、持病を持つ家族がいると、こうした情報は気になるし、警戒心は続いている。
緊張感
母が亡くなって16年が経った。義母が亡くなり5年が過ぎようとしている。そのとき、介護が終わって生活が少しずつ変わっていって、24時間ずっと続く緊張感がようやく抜けてきた頃に、コロナ禍になった。
その生活の中で感染を恐れ、さまざまな感染予防対策をとり続け、ずっと続く緊張感の生活が始まり、それが続いていく中で、この感覚は、介護の時と似ていると思った。
基本的には、永遠に続く負担感の中で、そこに適応するように、24時間の緊張感に慣れていくのが介護の時だった。それと似ていた。
介護が終わったのだけど、また、その感覚で生活することは、当然だけど苦痛だった。ただ、それでもコロナ禍が何年続いても、その緊張感に適応できると思ったのは、介護は19年続いたからだった。
2023年に「5類移行」をしてから、人によっては、「コロナは終わった」という感覚になっているし、若くて健康であれば、そう思ってもおかしくはない。ただ、私たちのような状況であれば、次々と変異株が現れる状況に警戒し、感染に気を続け、緊張感も持続している。
それは、まるで介護が続いている時の感覚とやっぱり似ている。
現在、介護を続けている方々は、当然だけど、介護への緊張感と、感染をしないようにする緊張感の両方を続けていると考えると、その負担感は、かなり重いと思うので、より支援が必要ではないかとも改めて思う。
(他にも、いろいろと介護について書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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