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『「介護時間」の光景』(118)「チア」。7.20.

 いつも読んでいただいている方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2005年7月20日」のことです。終盤に、今日、「2022年7月20日」のことを書いています。


(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)

2005年の頃

1999年から介護が始まり、2000年に、母は入院したのですが、私は病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。

 様々な葛藤がありながらも病院に通い続けて、何年かたった頃、母の症状は安定し、病院への信頼が高まってしばらく経った、2004年の頃、母はガンになってしまいました。

 手術もしてもらい、一時期は症状も落ち着いていたのですが、2005年の春には、再発がわかり、もう積極的な治療もできなくなりました。

 そのころの記録です。病気になってから、病院に行く頻度が増えていました。

2005年7月20日

「雑誌で公募していた賞に文章を送って、落選したのがわかった。

 やっぱりがっかりする。

 ずっと病院への往復をして、自分も死んでいくのかも、と思いつつ、だけど、病院には来なくちゃいけない。

 夕食が35分。ほぼ完食した。

 ごはんがなくなったから、と、あと一口だけでオカズを残した。

 そのきちょうめんすぎる感じは、ちょっと気になる。

 午後7時に病院を出る。

 いつも通りで、母はよかった」。

チア

 ホームに降りたら、ミニスカートの制服姿の女子が、何人も、何十人も、わりときちんと列を作って、隣の上り電車を待っていた。みんなが、みんな、でかいスーツケースを持っているので、妙に目立った。

 病院の最寄りの駅の改札を出た天井のあたりに、横断幕があって、地元の高校のチアリーディング部がアメリカに行く。みたいな事が書いてあったから、たぶん、それだと思った。

 何人か保護者らしき大人達もいる。その団体の周りまで、明るさというかエネルギーを、やっぱり振りまいているように感じた。

 晴れ舞台、って、どんな気持ちなんだろう?

 そう思わせる華やかさが、一瞬だけ見た人間にも伝わるようなものが確かにあって、だから、この気持ちを何十倍かふくらませて、それに不安や緊張も大きく加えて、でも、たぶんそれだけじゃないなにかもあって、などと、駅の改札を抜けるまで勝手な想像がふくらむのだから、なんだかスゴいと思った。ちょっと、こちらまでウキウキしていた。

                    (2005年7月20日)


 気持ちが落ち着かないまま、ずっと焦りと不安がふくらみながら、その生活は続いたが、母は2007年に病院で亡くなった。

 それからも、義母の在宅介護は続けながら、心理学の勉強を始め、大学院に入学し修了し臨床心理士になった。介護者への個別で心理的な支援である「介護者相談」も仕事として始めることができたが、2018年の年末に義母が103歳で亡くなり、突然介護が終わった。

 昼夜逆転の生活リズムを修正するのに、思ったよりも時間がかかり、そのうちにコロナ禍になっていた。


2022年7月20日

 昨日は、久しぶりに、人前で介護の話をさせてもらった。

 その内容が、自分の話す能力を考えたら、どこまで伝わったかどうかは分からないが、そうした機会を作ってもらったこと自体がありがたかった。

 そして、これまで10年間、家族介護者のことも理解してもらおうとして、なるべく話すこともしてきて、それでもなかなか、その常識が広がっていかない焦りや無力感や疲れはあるとしても、これからも、少しでも伝える努力はしていきたい気持ちはある。

 ただ、一人では、どうやっても広く伝わるのは無理なのではないか、という、せき止められたような感覚も同時にある。

目薬

 先週、急に白目のところが充血していると、妻に言われて、すぐに治るかもしれないと思いながら、眼科医に行ったら、炎症を起こしていると告げられた。

 それも、疲れのために、その症状が出ているから気をつけてください、とも言われ、そして、目薬を1日4回さす生活が数日続く。

 年に一度くらいしか目薬を使わないので、うまくできない気がして、妻にも手伝ってもらって、医師には、1週間後くらいには来てください、とも言われていた。

 治り方をみて、薬の程度を強めるかどうかを判断したいから、と重めの表情で告げられたので、赤みが減ってきたような気はしていたのだけど、本当の症状は、素人では分からない。だから、やっぱり行こうと思った。

自転車

 午後3時過ぎに家を出る。

 午前中に、妻が、すごくいい感じの花壇になっていた、と写真を撮りに行った美容院の前を通り過ぎる。確かに、細やかに花が咲いていて、色のバランスもよく、主張しぎない控えめな感じもあって、妻の言っていることも分かったような気がした。

 そこを通り過ぎて、しばらく歩くと、オウムがいる。そこに6人の男女の幼児が集まり、「ピーちゃん、ピーちゃん」と話しかけていて、さらに、母親らしき人が2人いて、いつもよりも、その鳥カゴの前の人口密度が高くなっている。

 その姿を横に見ながら、歩いて行ったら、少したって、後ろから、その子どもたちが、いっせいに走ってきて、追い抜かされた。「また走るの」とつぶやきながら、さっき鳥カゴの前にいた、電動自転車で追いかける母親らしき女性がいる。

眼科医

 病院に着いたら、待ち合わせ室に人が多くいた。この前来た時は、雨が降っていたせいもあって、誰もいなかったのだけど、やはり、相変わらずに、この病院は多くの人がやってくる。

 40分待つと知り、買い物で、常温でも大丈夫なものだけ買おうと思い、八百屋で野菜と、肉屋でメンチカツを購入する。

 それから、病院に戻ったら、7人目です、と言われ、さっきが8人目だか、9人目だか忘れていたが、少し進んだのが分かる。

 さらに待って、30分くらい時間が過ぎた時に、今日は上着も持たず、半そでのTシャツ一枚だったので、寒くなり、我慢したけれど、これ以上冷えると、カゼをひくかもと思い、受付の人に告げて、しばらく外で本を読みながら待って、体を少し温めてから、再び中へ戻る。

 それから少したって、呼ばれ、目の状態が良くなっていると、医師に肩を叩かれる。

 やっぱりホッとする。

 買い物をして、家に帰ったら、午後5時になっていて、妻と一緒にアイスを食べた。

 東京都の新規感染者は、2万人を超えていた。

 自分は、持病のこともあり、これからも外へ出る機会を増やすことは難しいと思った。さらに萎縮するような日々が、まだ続きそうだけど、どこまで続けられるのか、不安になる。




(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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