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私の『悟り』のビジョン①

まず、私の悟りのビジョンとはどういう事か?について思うがままに書いていきます。(殆ど思い付きの備忘録ですが、読んで貰えると嬉しいです)

1.私の悟りのビジョンは日々アップグレードされて行きます。

仏教等の悟りは、基本的に最終形が定まっていて釈迦の教えに沿うものになるかと思いますが、私の悟りはまずその点が異なります。

何故そうなるのか?というと、私の悟りは基本的に、
①科学的な実証結果と、②数学的な公理、③徹底した論理的思考

によって組み立てられるので、新たな新事実や新発見があった場合、素直にそれを取り入れ進化していきます。

中でも、③徹底した論理的思考に重きを置いています。


2.私の悟りは哲学ではありません

もちろん哲学的にこの世界の成り立ちや存在について考えますが、哲学という学問の系譜には属しません。哲学はある程度までは論理的思考に従いますが、論理的な自己矛盾や、科学的事実との矛盾を放置する傾向があると思います。私の悟りはこの種の矛盾を非常に嫌います。

無論、過去の哲学は人類の叡智であり、その着想や論理的展開を参考にする部分は多々あります。


3.私の悟りは認識論ではありません。

多分この点が一番特徴的だと思います。あくまで「この世界の真の姿」を「有る」とした上で、その姿を追求していきます。

結局はそれを人間がどう認識すべきなのか?を考える訳だから認識論だ、と言われると大きく間違った指摘ではないと思いますが、私の場合は観測者がいない状況での「世界の真の姿」を想起した上で、人間の理解のフォーマットに落とし込んでいきます。

あくまで「人間の認識の外側」にある(その認識をもたらす根幹)、
「世界の真の姿」を対象として浮かび上がるビジョンです。

このシリーズで書くべきことは山ほどありますが、ちょうど良いのでこの話から始めたいと思います。


・「有る」と「世界の真の姿」について

私の悟りは、この世界は「有」に満たされていて、人間が何を認識する時、その知覚現象の外側にはその根幹となる実在世界が広がっていると考えます。

「当たり前のこと」と思われるかも知れませんが、実はそうでもないんです。

最近では、量子情報理論なるものが急激に発展しており、「この世界に実在と呼べるものは無く、全ては情報の世界である」と考えるそうです。

「えっ、情報だけ?じゃあその情報はどこに記憶するのか?」
という疑問が湧きますが、
「その記憶媒体も情報で、どこまで行っても世界には情報しかなく実在が無い」
と考えるそうです。

「存在」はこれまでの概念では2種類あって、

一つは有形の存在(物体など実証と共有認識が可能な存在)、
一つは無形の存在
(イメージ、概念、論理構造、など情報そのもの)

 

に分かれると思います。この場合、「実在が無い」という主張は、この「有形の存在」が存在しないという意味になると思います。

しかし、量子情報理論では「この無形の存在こそが実在だ」と主張する訳でなく、「世界には情報だけが存在し実在はない」と考えるそうです。

「客観的な事象や事実である実在」があって初めて情報が生まれるのではなく、「意味の受け手側がいない世界」で情報が情報として存在し世界を構築しているそうです。

※因みに、その論理構造を吟味すると、情報だけで構築された世界は、実在の無い世界なので、実際には空間的な広がりはありません。領域無きスペースに、格納される媒体も無く、情報の情報による情報だけの無空間世界をひっくるめた情報がどこかに存在しなければいけない事になります。

つまり結局は、「世界には実在は無い」という主張と「すべては情報である」という主張は相互矛盾を引き起こす事になります。

私の量子情報理論の解釈が間違っている可能性もありますが、言いたかったことは、徹底的な論理展開とはここまで考えるのだ、という事です。
もし誤解があればご指摘ください。

因みに、量子情報理論では、こうした背景があるので、
量子力学は「実在論」を扱う学問ではなく、「情報理論の一種」、あるいは「認識論」の範疇と考えるそうです。

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もう一つ、この「有る」と「世界の真の姿」が当たり前ではないではない話です。

「有る」や「世界の真の姿」とは?と言ってピンと来られた人も多いと思いますが、西洋哲学において最重要人物であるマルティン・ハイデガーとイマニエル・カントがその探求を断念し結論を出せなかったテーマです。

ハイデガーは、「有る」という事それ自体は何なのか?と言う問いを立てましたが途中で断念し、

カントは、「人間の認識世界」の外側の世界(ヌーメナ界)は存在しているが、永久に辿り着く事は出来ないからもう考えるのは辞めよう、と言って哲学のターゲットを人間の認識世界に限定しました。

その後、急速に発達した自然科学が「客観的な実在の世界を探求」する学問として袂を分かつ事になったのに、
最先端の物理学の世界では、「もう実在を考えるのはやめよう、認識論でいいじゃないか」
と言っている訳ですから、凄く面白い話だと思います。

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前置きが長くなりましたが、私の悟りのビジョンでは「有る」とは単純に完全な無でない事、これだけです。
そして「世界の真の姿」があるからこそ人間の認識が生まれると考えます。

よく宇宙は無から生まれた、とメディアが喧伝していますが、論理的にあり得ません。
無は何も生まれないから無なのであって、何かの生まれる可能性のある無は無とは言いません。

これが私の一貫した主張です。
「でもあの偉大なノーベル物理学者がそう言っていた!」など権威に惑わされる事も一切ありません。
これが徹底した論理的思考です。これは非常に重要で悟りのビジョンに届くためには欠かす事が出来ません。

実際に物理学では完全な無から宇宙が生まれたというのか?というとそうではありません。揺らぎと言う「有」の状態から宇宙は生まれたとしています。「無から宇宙が生まれた」というのは完全にメディアのミスリードでありデタラメです

この「有」の考え方については、私の悟りのビジョンの中で非常に重要になるので、じっくり書きました。まだまだ語るべきことが多い論点です。

もう一つ「世界の真の姿」があるからこそ人間の認識が生まれる
というビジョンが生まれる前提構造はこうなります。

実在(認識対象の根源となる何か)

観測者(それを認識する人)

ビジョン

 

まあ現代人が普通に考えている認識体系です。これがすべて情報と考える事も不可能ではないですが、「実在が無い」とは考えません。なので「認識論」にも移行しません。

もちろん、宇宙には「ここからが実在で、ここからが認識の領域」という線引きは無いと思います。全ては人間が勝手に線引きする概念です。その上で「実在」という概念を再定義する必要があります。

実在は必ずしも、粒子などの物質である必要もなく、要素分解した果てに生まれる「個」でなければならないとは考えません。

認識を生み出す根源であり、何らかの「有」です。
完全な無ではない「有」
存在として認められない「非実在の情報」ではなく「完全な無でない有」です。
これが私が考える「実在」の外郭です。

すごく抽象的な話から入りましたが、この切り口はこれから「真の世界の姿」を想起していく上で、何度も立ち還る必要のあるとても重要な論理的な真実です。

そしてこの回の最後に、さっきの「現代人が普通に考えている認識体系」を悟りの到達のために再定義します。

①実在(認識対象の根源となる何か)

②観測者の幻影(ファンタズマ)

③観測者による再構築

④悟りのビジョン

 

あとから細部修正するかも知れませんが、もし図示すればこういうイメージです。

①実在とは、人間の認識とは無関係にある「有」です。
例えば目の前に赤いリンゴがあったとして、そのリンゴは人間の認識の産物なので、実際には赤い色もしていませんし、丸い形もしていません。※この理由は次回以降で書きます。

②観測者の幻影(ファンタズマ)とは、赤いリンゴが目の前にあるように見えるという、人間の脳裏に浮かぶビジョンの事です。
ビジョンと言う言葉が2つ出て来て少しややこしいので幻影(ファンタズマ)という言葉を採用しました。脳裏に浮かぶ映像としてのビジョンと同じ意味です。

③観測者による再構築とは、そうした観測した事実を基に、論理的思考や数学的公理、科学的な原理や実証を踏まえて「真の世界の姿」を再構築するフェーズです。
「観測者による再構築」は今思いついたのですが、ネーミング的にセンスが無いので変更すると思います(笑)

④悟りのビジョンとは、文字通り悟りのビジョンです
これはこれまでの論理的思考の果てに達するものですが、明らかに一般人の普段の認識様式とはかけ離れた視点で眺める事になり、そこに浮かぶビジョンは言葉では簡単に言い表せないものになります。


大変長くなりましたが、大体の道筋は付けられたと思います。次回、今日の内容をより詳細に発展的に書き進めたいと思っています。

長文を読んで頂きありがとうございました。


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