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自由に生きるための哲学勉強会 第1回 ~カント 『純粋理性批判』~

昨年(2022年)より、若輩ながら "いちチームのマネジメント" を担うことになったのだが、日々チームメンバーと向かい合う中で 『自分の中にもっと芯の様なものを培う必要性』を感じ始めた。

そんな中、身の回りで『自由に生きるための哲学勉強会』という有志による学び場が発足したため、哲学分野は全くの素人ながら参加してみた。このnoteは、勉強会への参加を通じて感じたことを備忘録的に残すものである。

1.今回の哲学勉強会のテーマ

カントの著作である『純粋理性批判』が、今回の勉強会のテーマであった。自分自身のおさらいも兼ねて、概要を書いてみると以下の通りである。
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■ 『純粋理性批』とは? (導入紹介)
近代哲学の二大難問であった「物心問題 (※1)「主客一致の問題 (※2)への解答を目指す中で生まれた『イギリス経験論 (※3)『大陸合理論 (※4)との統合を目指したカントによる構想である。

カントは従来理論の前提であった「客観がまずあってそれを主観が写し取る (客観 ➡ 主観) 」という考え方に対し、「主観があらかじめ備えた共通の枠組み/共通のメガネによって客観を作り出す (主観 ➡ 客観)」というコペルニクス的転回を土台として展開された。「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」というフレーズに集約される。

※1:物心問題
自然科学に基づき、私たちが生きている世界の隅々、、『心』にまで因果の法則が張り巡らされているとするなら、人間には自由意志は存在しないことになる。そんな "物と心の関係をどう考えたらよいのか?" という難問。

※2:主客一致の問題
私たちそれぞれが、自分以外の主観を体感できないことを踏まえた時に生じる "主観はどうやって客観的世界に一致する知を獲得できるのか?" という難問。"人間の知の客観性をどう理解したらよいか?" とも置き換えらる。

※3:イギリス経験論
「人間のすべての認識は経験によって形成されるため、人間は自らの主観の外には出られない」とする理論。ジョン・ロックやデイヴィッド・ヒュームらによって提唱された。

※4:大陸合理論
「人間は経験に拠らずとも、知性によって理詰めで物事を突き詰めることで、合理的に客観的世界の秩序を認識できる」とする理論。バールーフ・デ・スピノザやライプニッツらによって提唱された。

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なお、今回の哲学勉強会の参考書籍は以下の2冊。参考までに紹介する。

《上記書籍に関する参考メモ ( ..)φ》
どちらの書籍も素人でも比較的読みやすかった。本noteの「3.更に一歩踏み込む中で感じたこと」については、この2冊の書籍を通じて理解を深めながら記載した内容である。

2.哲学勉強会を通じて感じたこと

素直に感じたことは、「哲学って非常に人間味溢れるものだ」ということ。

今回テーマとなったカントの『純粋理性批判』は素人の自分にとっては非常に難しく、このnoteを記載している時点でも理解度はまだまだであることを自認している。真正面から「理解してやるぞ」という姿勢で取り組んでしまうときっと、あっという間に心が挫けてしまうのではないかと思う。

ただ、今回の勉強会を通じて、カントがこの内容を提唱するに至った元々の背景は、(カントがいた時代に) ぶつかり合っていた『イギリス経験論』と『大陸合理論』に折り合いを付けようとしたこと ということを知った。

その時代に生じていた理論間の矛盾/葛藤に対して、カント自身が折り合いを付けようとした結果として、この『純粋理性批判』が生まれたということをイメージすると、難解な内容も一転して人間味が溢れているものであると感じることが出来る様になり、哲学に対するハードルを下げることが出来た。

勉強会後に参考書籍を改めて読むと、本文中に著者 (『純粋理性批判』の解説者) から読者に対して以下の様なメッセージがあることにも気が付いた。

哲学書を読むときは、それが何のために書かれたのか、つまり著者の問題意識を理解することが大切です。とくに『純粋理性批判』のような大部の本は、一つひとつの言葉の意味や細かい議論に入り込むと、かえってわからなくなります。問題意識は何か、著者がそれにどう答えようとしているかという「大きな道筋」に着目し、わからないところは読み飛ばすくらいのつもりで取り組むことをおすすめします。

100de名著 カント 純粋理性批判 (著者:東京医科大学 哲学教室教授 西 研氏)

今回が初回の参加であったが、『哲学への触れ方』を体感出来たことが、まずは大きな収穫であったと思う。

3.一歩だけ踏み込む中で感じたこと

ここでは、勉強会後に自身で改めて関連書籍に触れながら、日々のマネジメントにも通ずる観点で印象に残ったポイントを2点紹介する。

勉強会への参加動機は、"いちチームのマネジメント" を担う中で 『自分の中にもっと芯の様なものを培う必要性』を感じたことである点を踏まえ。

① ”矛盾”はそれらが持つ”前提条件の再定義”で融和できる

当初交わること想定できなかった2つの理論 (※1) が共通して持つ前提条件 (※2) そのものに対して、コペルニクス的転回を交えた新たな解釈 (※3) の添えることによって、2つの理論の融和を図った点が非常に印象的であった。

※1 イギリス経験論と大陸合理論
※2 客観がまずあってそれを主観が写し取る
※3 主観があらかじめ備えた共通の枠組みによって客観を作り出す

( カントの「純粋理性批判」前における各理論の対立状態 )

~ 印象に残った理由 ( ..)φ ~
日々のマネジメントでも、相容れない2つの意見の融和を目指し、前提条件を見直す場面は存在する。ごく簡単な例を挙げるなら「〆切間近で〆切までに行える対応に限りがある場合に、対応の中身をギリギリまで精査するのではなく、全体納得の元で〆切を延ばす方法を考える」とかである。

この様な難しい哲学であっても、例えば一歩目のアプローチが『前提条件の把握とその見直しであった(という風に見えた)』点に面白味を感じた。

② ”認識の枠組み”を共有するからこそ"他者"と共有できる

「人がモノを認識し、その認識を他者と共有できるのは、認識するための枠組みを共有しているからである。」という観点が印象的であった。

より具体的には、人が世界を認識するため『五感を使ってモノの情報収集を行う』能力である【感性】と、『感性が提供する素材を分析・判断する』能力である【悟性】を用いているとし、更に【感性】には"空間"と"時間"という根本形式があり、【悟性】には"図式"、"カテゴリー"、"統覚"、"原則"という4つの要素があるとしたものである。

この様な"認識の枠組み"を人間は"他者"と共有するからこそ、人はそれぞれの主観で解釈された世界を共有、交換することが出来るという話であった。

( 人が世界を認識するために用いている【感性】と【悟性】 )

~ 印象に残った理由 ( ..)φ ~
日々の仕事においては、職場や一緒に仕事を推進するメンバー間で、予め "ルールや枠組み(フォーマット)" を共有しておくが、この様に "ルールや枠組み(フォーマット)" が予め定めることで、それぞれの担当者の主観に基づいて行った判断や行動が共有/横展開できるものとなっている とも言えるのではないかと考えた。

その様に考えると、「このカントが捉えた観点は、実は日々の身の回りにすでに溢れている」とも思える部分があり、非常に印象に残る次第だった。

4.そして余談や雑感など

気付きや学びという程ではないが、『純粋理性批判』に触れる中でシンプルに「何か面白いな~」と感じた内容を3点紹介する。

《余談①:『自然科学』も「哲学」である》

仮説と検証によって導かれた数式や法則によって成り立つ『自然科』も実は「哲学」であるということを知った。そもそも哲学とは「合理的な共通理解をつくるための対話の営み」であり、「互いに根拠を示し、ともに検討して、もっとも説得力がある主張が勝つゲーム」であるとのこと。

そして、今の自然科学は "自然の領域に応用された哲学" であるとのこと。自分は技術者なのだが、これまでに学びを重ねてきた物理学も電磁気学も哲学の一種であったということには、正直驚いた。

哲学って「答えのないものを追いかけている」先入観があったが、"必ずしもそうではない" ということをこの話から感じた。

《余談②:ここでの「批判」とは『考察』の意味である》

「純粋理性批判」と書いているので、終始「何を批判するのだろうか?」という認識の下で理論の内容に触れていたが、途中ようやく「ここでの「批判」とは『考察』の意味である」ということを知った。

もしかすると、哲学書に触れる時には「タイトルに使われている言葉が自分が知っている言葉の意味合いと合っているか?」を一度確認しておくと、読み誤ることを減らせるのかもしれない。

ちなみに「純粋理性」は "人間が経験から独立した形で先天的(※)に有する認識能力" のことを差す。 ※先天的:ア・プリオリ (a priori / ラテン語)

《余談③:カントの言う "人の性(さが)" へのギャップ》

【感性】【悟性】に次ぐ人の能力であるとする【理性】に関する話の中で、「人は推論の力である【理性】がその力をどんどん進めてついに暴走し、検証不可能なことまで答えを求めようする。」「個別の経験から "もっと普遍的な原理や真理に到達したい" と求めてしまう。」「それが人の性(さが)である」との旨があった。

ただ、周りを見渡しても必ずしもそういう "人の性(さが)" を充分に発揮する人達だけではない様に思う中で、「このギャップ (カントの言う"人の性"が発揮されていない人が一定数存在する様に見える) の背景には何があるのだろう?」と漠然と思う次第であった。

「カントが生きた時代・環境からのどんな差分が "このギャップ" を感じさせるのか?」など、引き続き頭の片隅で考えたり深めたりしたいと思う。

5.全体を振り返って

素人の自分では、1度勉強会に参加した上で (約1ヵ月間) 隙間時間で繰り返し書籍に触れた程度では、比較的表層に近い部分に対しては若干の理解に至りつつも、深くまで理解が及ぶ様なものではなかったと思う。

ただ、そんな中でも「なるほど~」と思わされる部分はところどころにあり、《哲学に触れることの楽しさ》は今時点でも充分味わうことが出来ている。引き続き、自分のペースでのんびり楽しんでいきたい。

なお、『純粋理性批判』はその後立て続けに発表された『実践理性批判』『判断力批判』を合わせて、「三批判書」と呼ばれているらしい。

(参考)本noteに関連する情報


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