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『第二夜(夢十夜)』(集英社文庫)(ちくま文庫)夏目漱石 著

 昨晩、あなたはどんな夢をみただろう。

 出社するため駅へと向かうが、ホームに足をつけた途端、突風と共に一切の景色が消え去ってしまう夢。

 決して振り返ることは出来ない狭く一直線な通路を歩いていると、背後から足音が凄まじい勢いで迫って来る夢。

 見知らぬ老夫と草原を走る汽車の中で二人きり。車窓の向こう側で並走していた馬たちが瞬く間に骨となり、地面で砕けた骨は疾走する自動車へと変化した。驚いて隣に座る老夫へ声を掛けようとするが、彼の白髪は黒い艶を取り戻し、弛んでいた頬はふっくらと豊かに膨らんで──。

 夢とは不思議なもので、脳の整理と言われている割には、むしろ引き出しの中身をぶちまけている感じがする。いやしかし、エントロピーは増大するのが自然の流れなので、脳内の混乱ぶりが実は「整理」の実態なのか。

 ううむ分からん、一体夢とは何だろう。

 そこで今日は、私のように夢について悩める人々に是非とも紹介させて欲しい小説がある。

 夏目漱石『夢十夜』だ。

 さて、私はこの十ある夢たちの中で、特に『第二夜』に長年悩まされている。まだはっきりと答えは出ていないのだが、現在の私なりの『第二夜』解釈を語らせて欲しい。

 因みに、集英社文庫の『夢十夜・草枕』とちくま文庫『夢十夜・文鳥ほか』の註釈を今回は参考にさせて貰った。



※ネタバレあり。必ず第二夜を読んだ後で下記を読んで下さい※





 さて、第二夜の始まりはこうだ。(以下引用はちくま文庫『夢十夜・文鳥』)

 こんな夢を見た。和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると行灯がぼんやり点っている。(中略)灯心を掻き立てたとき、(中略)部屋がぱっと明るくなった。

 物語の主人公と思われる侍が、入室(禅の試問に答えたり教義を問うこと)した後、自室に戻る場面で物語は始まる。

 この「部屋がぱっと明るくなった」は、無門和尚(中国 宋代の臨済宗僧)による『無門関』を読むと、ある皮肉が隠されているように思えて仕方がない。ただ、この件に関して、詳しくは後ほど説明させてもらいたい。

 お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が言った。そういつまでも悟れぬところをもってみると、お前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと言って笑った。くやしければ悟った証拠を持って来いと言ってぷいと向こうをむいた。

 これは寺の和尚の台詞である。

 果たして侍に悟りは必要なのだろうか。疑問が湧いてくる。だが、この侍

(前略)置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟ってみせる。悟った上で、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りと引き替えにしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。もし悟れなければ自刃する。

 と何故か和尚の言葉を鵜呑みにする。この場面には哲学者 西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の思想が当て嵌まるのではないだろうか。絶対矛盾的自己同一とは自己と他者、一と多、主観と客観など矛盾するものが相互に作用することである。

 侍は悟らなければならない訳ではない。それに対して「悟り」や「無」を口にする和尚こそ、悟っているべきではないだろうか。だが、侍は悟りを自分の問題とする。そして、和尚の言動は悟ったもののそれでは無いように思える。矛盾が彼らを取り巻いているではないか!

 矛盾は和尚の「お前は侍である」「お前は侍ではあるまい」にもあらわれている。

(前略)自分の手はまた思わず布団の下へ入った。そうして朱鞘の短刀を引きずり出した。

 侍は自室の座布団の下に短刀を隠し持っていた。しかしながらこの短刀、九寸五分の長さであり、主に切腹用である。となると、そもそも侍には和尚の首を取る気があったのか。

 さてこの後『第二夜』の謎を解く鍵となる言葉が出てくる。

 ──趙州曰く無と。無とは何だ。糞坊主めとはがみをした。

 趙州とは中国 唐代の禅僧である。この「趙州曰く無」とは「趙州狗子」(「趙州無字」とも言う)のことだ。

 『無門関』(岩波文庫)西村恵信 訳註 には

「 趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや」。州云く、「無」。」

 と、ある。修行僧が「犬にも仏性がありますか」と問い、趙州は「無い」と答えた。

 この趙州の短い公案に対して無門慧開和尚の評唱(解説)には

「決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。(中略)時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分と世界の区別がなくなって一つになり(中略)ともあれ持てる力を総動員して、この無の字と取り組んでみよ。もし絶え間無く続けるならば、あるとき、小さな火種を近づけただけで仏法のともしびが一時にパッと燃えあがることだろう」

 とある。仏法のともしびがパッと燃え上がるとは、つまり瞬時に悟れるという意味だ。

 ここで「おや?」とならないだろうか。

 そう、冒頭で侍が燈心を触ると部屋がぱっと明るくなった場面。もしや、最初に入室した時点で侍は既に何かを会得しており、自分の室に戻った時には「無」を、悟りを殆ど掴みかけていたのではないだろうか。

 だが、「いやいや、侍は「無」が現前せずに苦しんでいるではないか」と言いたくなる方は少なくないだろう。

 そこでもう一つ。

 侍の部屋には蕪村による襖の画があると書かれている。

 これは恐らく与謝蕪村の『柳陰漁夫図』だと思われる。この図には、寒そうに笠を傾けた男と、白髭を生やし穏やかな表情をした男が描かれている。ただ『第二夜』には、寒そうに笠を傾けた男のみしか出てこない。因みにこの男、手には薬缶(やかん)をぶら下げている。

 侍は、首を取ろうとしている和尚を「薬缶頭」と呼んでいた。

 おやおや? 侍は確か「悟らなければ、和尚の命が取れない」と言っていた。薬缶を持つ漁夫は、和尚の首を取ったというメタファーなのか。だとするなら、侍は悟ったのか。いやしかし、彼は侍であって決して漁夫ではない。どういう事だ。

 ここは謎を抱えつつ、次に進もう。

 床の間には海中文殊の軸が掛かっている。文殊菩薩は、釈迦の脇侍(釈迦に侍するもの)であり、智慧を司る菩薩だ。獅子に乗って雲海を渡り、説法の旅に出ている様子を描かれた掛け軸である。侍の室には文殊菩薩のお姿があるのだ。

 悟りの象徴である文殊菩薩が、彼の室にはいる。部屋はぱっと明るくなり、漁夫は薬缶を持っている。

 ここまで来ると、私の頭の中では侍も和尚も漁夫もぐちゃぐちゃになって境目が分からなくなってくる。自己と他者の境界線が無い、全てを包み込む「絶対無の場所」にこの寺はなっているのではないか。そんな風に思えるのだ。

 そして後半部分、「耐えがたいほど切ないものを胸に盛れて忍び、それを外に出そうと焦るがまるで出口がない」といった描写は『無門関』の「趙州狗子」内で無門和尚が「無」に到達する過程を語った

「真っ赤に燃える鉄の塊りを呑んだようなもので、吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い流され──」

 に重なる。これは……悟りは近いぞ。

『無門関を読む』(講談社学術文庫)秋月龍珉 著によると、

「(前略)一箇の「無」の字に参じ、昼も夜も一日中これを問題として提撕《ひつさ》げよ。(中略)自然に内(主観)と外(客観)とが一つになる。そこは啞子が夢を見たようで、ただ自分だけが分かっていて、他人には語れないようなものだ。」

 と書かれている。侍の体験と似ているではないか。

 では、いよいよ『第二夜』最後の場面。

 そのうち頭が変になった。行灯も蕪村の画も、畳も、違い棚も有って無いような、無くって有るように見えた。

 ここで侍は、内と外が一つになった体験をしているのではないか。つまり「無」へ辿り着く寸前だったのではないだろうか。だが、時計がチーンと鳴り、はっと思ってしまう。そして短刀を手にする。そして二度目の鐘を時計が鳴らす。

 ここからは完全に私の勝手な想像なのだが、この後、侍は自害するのではなく、最初の場面に戻るのではないだろうか。

 掴めそうで掴めない、無限に繰り返す苦しみ──。これは悟りを欲する和尚(若くは侍)の亡霊、彷徨える魂、そして「夢」なのかもしれない。

 ただこの夢の結末を知っているのは、文殊菩薩のみである。

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