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余白は意図的につくるもの

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今年も残すことわずか。東京読書倶楽部の読書会も、昨夜無事に終了した。

あと5日働けば仕事納め。そしてこの時期は、忘年会シーズンでもある。

私にしては珍しく、来週末は忘年会が3日連続で続く。これは大変珍しい。

そんな中、昨夜の読書会にて「私は会社の忘年会に絶対行きたくない」と語る方がいた(書いて大丈夫と承認は得ています)。

個人的には、会社の忘年会は「全然行きますよ」と思う派である。仕事終わりに飲みに行くのも、別に嫌いではない。

まぁ「行きたくない」って人は一定数いらっしゃる。「行きたくない」なら、無理して行かなくていいと思う。

ただ、「みんなそう思ってますよね(行きたくないですよね)!?」的な聞き方をされていたので、そのときは黙っていたけど。

もっとも、あまり頻繁に飲み会やらランチが続いたら、それは流石に面倒だと思わなくもない。

そんな中、会社の図書スペースにあった山﨑晴太郎さんの「余白思考」日経BP (2024) を紐解いた次第。

アートディレクターを生業としている著者が、仕事の進め方や人間関係において、余白を自らつくることを推奨している。

余白思考とは……物事と物事、人と人との間に、戦略的にすきまをつくること。そして、心地よいすきまは、意図的につくらないとできないと知っておくこと。

同著 77頁より抜粋

余白とは、無駄になったスペースではなく、意図的に生み出すもの。

本の上下左右に余白があるように、何らかの意図を持って余白がついている。

この記事でさえ、私がどこで改行するか、つまり余白を生むかを意図的に決めている。

ライターとして学んだことの1つ。文章に余白がないと、読み手にストレスを与えてしまう。小説や文学作品など、ある程度文章が詰まっていることを前提にしていれば、読者もそれほど気にならないと思われる。
だけど、SNSやコラムは、どちらかと言うと「サラッと読みたい」人向けに書いている記事である。ぎっちぎちまで文章を詰めていると、1つのセンテンスを理解するのに、ストレスが掛かってしまいかねない。
そもそも、ほとんどの読み手は、文章に対して一言一句、正確に読もうと思っていない。多少読み飛ばしをしつつ、気になるところがあればじっくり読む。だからこそ、読み手にストレスを感じなような文章が求められる。

もっとも、余白の有無は、好みでもある。

本を読むように、なるべく余白をつくらないほうが読みやすい、という考え方もある。

それもまた、同じように、意図的に余白を「ゼロ」に作っているとも言える。

さて、仕事やプライベートにおいて、余白がいかに重要かについて。

著者は余白がないと、徐々に「やるべきこと」や「やらねばらなぬこと」に囲まれてしまうと語る。

「小さくまとまる」という表現がありますが、まさにそんなイメージ。余白は使わないと、どんどん縮小していきます

同著 232頁より抜粋

先の忘年会の話に戻るが、私は会社の忘年会は「構わぬさ」派である。

それは、人と食事に行く機会がなさすぎて、「たまには誰かと酒を飲みたい」という理由が大きい。

逆に、毎日のようにランチミーティングがあったり、連日飲み会がある生活だったら、流石に「わざわざ忘年会なんて……」と思う。

それはある種の、余白がない時間の過ごし方かと思われる。

あらゆる時間が「仕事の地続き」のような感覚だと、おちおちゆっくりするのもままならないだろう。

あるいは、人間関係の距離が近すぎるのも問題かもしれない。

人は誰しも、自分を守ろうとするときには「閉じる」ことを考えがちですが、本来は余白を「広げる」ことでこそ自分を守ることができるということです。

同著 157頁より抜粋

私の場合、スケジュールはいつも真っ白。余白だらけさ。

「たまに飲みに行くのも良き」と思えるくらい、普段からそこそこの余白を設けているからこそ、という解釈もある。

むしろ、「たまには予定を埋めないと!」と思うくらいに、ある意味「余白思考」で生きている。

そんな風に、あれやこれやと詰め込みすぎず、予定に「余白」があるような年末年始も良いんじゃないかって。

年末年始は実家で過ごす、自称読書家なり。それではまた次回!

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川口 竜也 / 川口市出身の自称読書家
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