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のみやさん【オリジナル小説】【連載】

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記事一覧

自覚なき芽吹き

あの日――時子さんが雷に怯える姿を見てから幾ばくかの時が過ぎたが、私たちの関係は特に大きな変化はない。
 そりゃ確かに、時子さんの苦手なものを知ったというのは大きな出来事だったけれど、だからと言ってそれ以降何かが始まるわけじゃない。弱みにつけ込んで、なんてことはしないしそもそもできない私は、彼女のその事実を知ってからもあまり変わらずにいつも通りに過ごしていると思う。
 それもこれも、時子さん自身が

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嵐の後の静けさ

「大丈夫ですか……?」

 どれくらいの時間が経ったことだろう。外の雷鳴は少しずつ遠ざかり、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静寂が支配している。
 相も変わらず私の腕の中にいる彼女は震えが止まらず、恐らく震えの原因が去った今でもこれなのだから、相当なのだろう。改めて声をかけてみたけれど、それに返事はないのが全てを物語っている。
 家の鍵を取りに来ただけだったのに、まさかこんな場面に出くわすなんて誰

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雷鳴と衝撃

 酔いに任せた足取りは、早足のはずなのに目的地にはちっともたどり着けない。それに少し苛立ちを覚え始めたのは、不意に見上げた空模様からだった。
 始めは気が付かなかったのだけれど、ぽつり、と私の頬に一粒の雫が落ちてきたのをきっかけに、少しずつその粒が落ちてくる量が増え始めた。夜空を染めていたのは星空ではなく、暗雲だったと気づいたときにはもう遅く、それは次第に雨脚を強め始めたのである。
 それだけでは

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聞こえない轟き

 私が『のみや』へ通うようになってそこそこの時間が過ぎた。
 今まではそれこそ緊張してはいるのにも躊躇いがあった私だったけれど、数を重ねていくうちにその敷居は少しずつ下がっていった。知っている人の顔も増えてきて、話をしていると他の常連さんも会話に混ざってきてくれたり色んな話を重ねていくうちに私もいつの間にかその輪の中に入っていたようだった。

「おっ、わかばちゃんじゃねぇか」

 その証拠、という

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ほろ酔いの居場所

 あの日――野宮さんの所に行くようになってからしばらく。
 私の生活に大きな変化はないものの、少しだけその兆しのようなものが出始めていた。

「おーやなぎぃ、なんか最近張り切ってんなぁ」

 いつもの間延びした上司の声に対し、はいっ! といい声で返事する。相も変わらず仕事に関して上手くいかないことの方が多いものの、少しずつではあるが目の前にある書類の意味や必要性なんかがようやくわかってきた。同期た

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途切れた意識の先の話

 最近、珍しいお客様がここに立ち寄ってくれる機会が増えた。
 元々入り口から入りにくい、と色んな人に言われてきた佇まい。和装なのは私が好んで頼んだものだし、内装も色々と考えて決めたから私としては満足している。それにこの佇まいなことでやってくるお客様も迷惑をかけるような飲み方をされるより、ゆっくりと美味しく飲んでいただける方が多いので、結果的にはこの様相にして正解だった、と今は強く頷くことができる。

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くぐり慣れない暖簾

「またいらっしゃっていただけて、嬉しいです」

 店内に通されてから、微笑まれる。その笑顔があまりにも綺麗で見惚れてしまうし、きっとその顔はかなり呆けていたのだろう。私の顔を見るなり野宮さんはくすくすとまた笑ってくれた。

「そんな驚いた顔しなくていいのに」
「いや、でも、だって」

 先ほどのことを思い出し、再び私の頭は混乱しかけていた。
 先日初めて来たときに厨房にて小さな声で話しかけてくれた

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菓子折り一つ

 あの不思議な居酒屋であった出来事は、本当に夢だったんじゃないかと今でもたまに思う。というか、あんな夢みたいな出来事が本当に現実にあっていいのかな、と考え込んでしまうくらいには素敵なひと時だったと思う。
 気が落ち込んでいた私をそっと慰めてくれた、和服の女将さん――野宮さんに思いをはせて早一週間。この間のお礼とお酒のせいで覚えていない記憶について謝罪をしないといけないと思いつつ、その足は遠のくばか

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夢か現か

「落ち着きましたか?」

 どれくらい時間が経ったのか、震える肩が止み始めたころに彼女の声がかかる。涙でこすってすっかり赤くなっているであろう目元を最後に擦って、顔をあげれば穏やかな表情でこちらを見つめている野宮さんがいて、その姿にほっとする自分がいた。
 たどたどしく、ちゃんと自分の気持ちを吐き出せたかは定かではない。だけどなんだか心の中で渦巻いていた感覚がスーっと溶けていったような気がする。

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外された枷

「野宮、時子、さん」

 彼女の名前を復唱して、馴染んだ感覚が私の身体に巡っていく。
 柔和な印象に似合う名前だと、率直に思った。

「いい、お名前ですね」
「あら。そんなこといってくれると嬉しいわ。私もとっても気に入っているから」

 そう言って笑う彼女に、釣られて私も強張っていた頬が少しだけ緩む。野宮さんが放つオーラはなんというか癒されるというか、さっきまで張り巡らされていた緊張の糸を一切の違

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始まりの足音

 暖簾をくぐったその先は、やっぱり私がいていいような場所じゃないと改めて感じた。
 和装の外観に劣らぬ内装は、カウンターが四席、テーブルが二席のこじんまりとした空間だ。しかしながらそこで纏っている空気はとても私のような人が入っていいような空間ではない。もっと上の、私の上司よりも上の人たちが来るような場所だとわかって、私の足は再びすくみそうになる。

「お好きな席へ、どうぞ」

 玄関先で立ちすくむ

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導かれた扉の先 -Prologue-

 あそこに行きついたのは、本当にただの偶然であった。
 買えり間際に発覚した、大型連休前の確認漏れ。それに対して私の明らかなミス。一年目だからといっていつまでも学生気分でいるんじゃない! と上司にこっぴどく怒鳴られ、その後処理をしていたら腕時計の短針はもうすぐ九時を指そうとしたころだった。当然社内に人気はなく、華の金曜日だというのにオフィスで一人作業をしている自分が寂しく真っ黒なディスプレイに映る

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