嵐の後の静けさ
「大丈夫ですか……?」
どれくらいの時間が経ったことだろう。外の雷鳴は少しずつ遠ざかり、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静寂が支配している。
相も変わらず私の腕の中にいる彼女は震えが止まらず、恐らく震えの原因が去った今でもこれなのだから、相当なのだろう。改めて声をかけてみたけれど、それに返事はないのが全てを物語っている。
家の鍵を取りに来ただけだったのに、まさかこんな場面に出くわすなんて誰が予想していただろう。
雷雨のおかげで覚めた酔いに感謝しながらも、しかしそれのせいで震える彼女をどう宥めたものかとない頭をくるくると回転させる。
「っ……」
もはや声を出すことも出来ないのか、私の声にかろうじて反応してくれた時子さん。しかし私の腕の中で震える彼女は、とてもじゃないが話のできるような空気ではないことは確かだ。
「ゆっくりでいいですよ。焦らないで」
自分から出る声音の優しさに、我ながら驚かされる。こんな声を出したのは実の妹に対してだけだった気がするし、何より今目の前にいるのは普段から私やお客さんたちを気遣ってくれる時子さんだというのだからさらに驚きだ。
「ごめ、な……さ、」
「いいんですよ、気にしないで」
途切れ途切れの声。震えの止まらない彼女を落ち着かせようと背中に回した手でゆっくりとその背中を撫でる。子供をあやしてるみたいだなぁ、と場違いなことを思ったけれど、多分それは今言うことじゃないということくらいはさすがの私でもわかる。
先ほどまでの荒々しい空間はない。あとは彼女が落ち着いてくれるのを待ってから、鍵のことを話せばいい。それよりむしろ、このまま彼女を放っておくほうが怖い気がした。
「落ち着きましたか?」
私が『のみや』へ戻ってきてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
すっかり静けさを取り戻した店内ですすり泣く彼女の声がなくなり、呼吸も少しずつ落ち着いてきたころを見計らって再び声をかければ、先ほどより幾分か落ち着きを取り戻した時子さんが私の腕の中で小さく頷いた。
「……ごめんなさいね。こんなところ、見せちゃって」
申し訳なさそうに顔をあげる彼女に、私は思わず苦笑いがこぼれた。
「別に気にしないでください。それより時子さんが落ち着いてくれたようで何よりです」
「わかばちゃんに心配かけさせるようなことしちゃって……恥ずかしいわ」
年上なのに、こんなところ。
いつも通りを取り戻した彼女は私の腕からそっと離れると、着物の裾を払って立ち上がろうとする。――しかししばらくしゃがみこんでいたせいか上手く立ち上がれずふらつく彼女をそっと抱き留める。
「おっと……」
「ご、ごめんなさい……大丈夫?」
反射的にだろうか、何度も謝る彼女が珍しくて思わず笑ってしまいそうになってしまうのはきっと不謹慎なことだとは思いながらも少しだけ頬が緩んでしまう。
「気にしすぎですよ時子さん。私は大丈夫ですって」
「でも……」
「むしろ、普段の時子さんとは違って新鮮でしたから」
その言葉に尽きると思う。普段の余裕溢れ、私の考えていることなんてお見通しな彼女の意外過ぎる一面。しかもこんな形でそれに出会うなんて思いもしなかった私からしたら、ある意味ナイスタイミングだったんじゃないかと思ってしまうのも許してはもらえないだろうか。
そんな私の考えていたことが時子さんにも伝わったのだろうか、少し不満そうな顔をした彼女がこちらをじっと見つめてくる。
「私はそんなつもりじゃないんだけど」
「あはは……それはそう、ですよね」
「もう……ほんとにわかってる?」
少しずつ、いつもの調子を取り戻してきた彼女の口調にホッとした自分がいる。
確かに先ほどまでの時子さんは見たことがなかったし新鮮なものではあったけれど、それでもやはり普段の彼女の方がらしいというか、少し困った顔で私を見る時子さんの視線の方が安心する自分は、つくづく彼女の魅力に絆されているんだと実感する。
「それはそれとして……どうしたの? 何か忘れもの?」
「あっ……そうだ」
このままだと私に詮索されかねないと危惧したのか、話題をすり替えられる。本当はもう少し彼女の話を聞いて痛かったけれど、彼女に促されて本来の目的を思い出す。
「多分鍵を忘れちゃったかなって思って……、っと」
もう離れても大丈夫だと言外から伝わる視線に従って離れてから、私が今日使っていたカウンター付近に視線を移す。暗がりの中とはいえ、あれだけのキーホルダーのつけたそれはすぐに見つかった。まさか床に落ちているとは思わなかったけれど、幸いどこにも傷はついていないようだった。
「よかった。ちゃんとありました」
「それはよかったわ。なかったら大変だものね」
「そうなんですよ……家の前で気づいちゃったからあわてて戻ってきたら――」
と、言いかけると彼女の視線が少しだけ下がる。大方先ほど自分を振り返っているのだろう。その顔は少しだけ赤らんでいて、照れくさい、と言うより恥ずかしい、と言った方が正しい反応だ。
「時子さんって、もしかして――」
「えぇ、恥ずかしながら、苦手なのよ。雷が」
苦笑交じりに話す彼女は、すっかりいつも通りだ。まるでいつもの世間話をするように、私の話に合わせて喜怒哀楽を見せる彼女があまりにもいつも通りすぎて、今の状況には似合わないとさえ思うほど。
きっと、多分。これは私の憶測でしかないことだけれど。
――彼女は、いつも通りを振舞おうとしているだけだ。
それはまるで、何か自分にとって大事な何かを隠すような、そんなごまかしにすら見える。だけどこんな失礼なことを聞けるわけもなく、私のなかにはただただ、彼女に対する憶測だけがじわじわと広がっていくだけ。
「時子さんにも苦手なもの、あったんですね」
「あら、私だって人間なんだから苦手なものの一つや二つ、あって当然でしょう?」
そう言って苦笑いする彼女の表情のぎこちなさが、喉の奥に引っかかる。
言ってしまえばいいものを、その言葉で変わってしまうかもしれない関係があるかもと一瞬でも頭によぎってしまったら、私はそれ以上聞くことなんてできるわけがなかった。
「それも、そうですね……」
我ながら歯切れの悪い返事だとは思う。だけどこれ以上考えを押し殺して話をするなんてことができない私の、私なりに精いっぱいの苦笑だった。
「変な所見せちゃって、何度もになっちゃうけど、ごめんなさいね」
「あぁ、いえいえ! それはいいんですって!」
「でも、こんな所……」
「誰にだって苦手なものはありますから! 私なんて虫ダメだし、高い所ダメだし、お化けも……」
彼女を元気づけさせようと広げた話題が悪かった。自分のダメなものを羅列して、我ながら子供っぽすぎたことに気が付いてしまった。前々から自覚していた部分ではあったけれど、改めて口にすると子供じみていて今度は私が頭を抱える番だった。
「ふふっ、もしかして元気づけさせようとしてくれてる?」
「は、はは……」
思わぬ形で暴露してしまった自分の苦手なものに、さっきまで固かった表情も徐々に柔らかいものへと――いつもの時子さんに戻っていく。戻っていく彼女にほっとしながら、あと少し、あと少しだけ彼女と一緒にいる時間を過ごしたいと願ってしまった。
「あの、えっと……」
「さっき、変な所見せちゃったお詫びじゃないんだけど」
もう少しだけ、お話付き合ってもらえるかしら。
そしてまた、彼女は私の考えていることなんてお見通しなのだろう。私の表情から欲しい言葉をくれる彼女に感謝しながら、私は彼女の提案にうなずいた。
まだ知らない、出会って間もない彼女に、こんなに興味を持っていた自分に少し驚きを隠せない。
だけどそれが心地いいと気が付くまで、あと――――
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