途切れた意識の先の話

 最近、珍しいお客様がここに立ち寄ってくれる機会が増えた。
 元々入り口から入りにくい、と色んな人に言われてきた佇まい。和装なのは私が好んで頼んだものだし、内装も色々と考えて決めたから私としては満足している。それにこの佇まいなことでやってくるお客様も迷惑をかけるような飲み方をされるより、ゆっくりと美味しく飲んでいただける方が多いので、結果的にはこの様相にして正解だった、と今は強く頷くことができる。
 しかしそんな場所に、偶然という形ではあったが出会ったとあるお客様は、この店には本当に珍しいと思ってしまうくらい、今までの人とは違っている。
――だからきっと、私は彼女を招いたんだと思う。

『今日は誰も来ないから、良かったらどうぞ』

 確かにあの日は、金曜日でありながら予約もなく、店を閉めようかと考えていた。個人経営の中でも割とゆったりとした私の店は、客入り一つで臨時休業にすることはままあるし、それでも何とかやっていけているのだから世の中上手くできているものだ。
 あの日もそんな感じで閉めようと引き戸を開けた先にいたのは、若くて可愛らしい女の子。私と目が合って、おどけて震えながら帰ろうとしていたから、そのまま店内へと招いたのだ。
 招いてからも借りてきた猫のようにその場から動かず、きょろきょろと店内を見渡している。大方今まで来たことのないようなお店だから、どう振舞ったらいいかわからないのだろう。私も昔はそんなことを考えていたっけかな、と一瞬考えて遠い昔のことね、と自分に苦笑してしまう。
 昔から、こういう佇まいの店に入ることに特別な抵抗はなかった。むしろこうして自分が切り盛りする立場になるのだから、不思議な縁ね、なんて。
 メニューを渡そうと準備していたら、不安そうな顔をして手持ちがないことを伝えてくる彼女。大丈夫ですよ、と微笑みながらそれを渡せば、みるみるうちにほっと安心した顔をするのがあまりにもよく似合って、笑っちゃだめだと思いながらも思わずこぼれた笑みは仕方がないと思わせてほしい。
 お酒が強くないという彼女に向けて注いだ梅酒にキラキラと目を輝かせ、まるで宝石がはじける炭酸に目を奪われる彼女の純粋な瞳が、羨ましいと思った。もうそんな経験を何年もしていないから、そんな新鮮な気持ちに慣れる彼女は、本当に純粋な子なのだというのは話を多くせずとも伝わってくる。
 感情を隠さない、隠せない子だと思った。
 だからこそ、きっと初めて会ったときもとてもつらそうな顔をしていたし、実際話を聞いてみたら辛かったことをぽろぽろと涙を流しながら話してくれた彼女を、昨日のことのように思い出せる。

「柳わかば、です」

 そんな彼女の名前は、とても鮮やかで彼女らしい名前だと、初対面なのに思ってしまったのは失礼なことだっただろうか。
 青々しく、芽吹きを迎えたばかりの彼女。これからどこまでも高く、大きくなることのできる可能性を秘めた名前は、ぴったりだと一人心の中で呟く。彼女の名前の由来を知らないから、下手なことは言わないでおこうと思ったのは、果たして正解だっただろうか。
 ゆっくりと、お酒の力を借りながら少しずつほどけていく緊張。そして魔法の力を借りて吐き出された本音を前に、私はただただ頷いた。
 お酒の力を借りすぎるのはよくないけれど、ほどほどなのは悪いこととは思わない。もちろん節度は大切だし、迷惑をかけないようにという最後の緊張は残っていたらしく、とろんと溶けた表情は、彼女が限界の証。

「あー……ちょっと、やりすぎちゃったかも」

 カウンターで突っ伏した彼女を前に、思わず苦笑いがこぼれた。
 本音を出してもらうためにとはいえ、こちらも勧めすぎてしまった。幸い眠っているだけのようだけれど、このまま放っておくわけにもいかない。何度か声をかけるとゆっくり立ち上がって、お金払います、とちゃんと答えはしたものの、その手つき足取りはとてもじゃないけど見ていられるものではない。

「よろしければ、近くまでお送りしますけど」
「らぃ、じょーぶ……」

 回っていない呂律を前に、それは大丈夫とは言わないのよ、と苦笑いを一つ。そのまま去ろうとする彼女の背中を追いかけて、引き戸を開ければ、ふらふらと若干の千鳥足で夜の住宅街へと抜けようとして――つまずいてふらつく。

「……」

 その拍子で少し涙目になる彼女を、私は見ていられなかった。

「兄さんごめん、ちょっと出かけてくるわね」

 厨房にいる兄に声をかければ、少しの間があって「気をつけてな」と言われれば、そこからその背中を追いかけるのは早かった。

「どちらまでおかえりですか?」
「んー……」

 受け答えのはっきりしない彼女を見て不安になりながら、それでもそのまま歩き続ける彼女の肩を持ち、その足取りに合わせて一緒に歩く。ほとんど変わらない身長でよかった、と胸をなでおろしながら歩くこと数分、彼女が嬉しそうに「ここです!」と応えるのを見て、自分の家はわかるのね、と笑ってしまいそうになる。

「じゃあせめて玄関までお送りしますね」
「いいのに……」

 こんな状態の彼女を一人、置いて行けるわけがないじゃない。
 言いかけた本音はぐっとこらえて、そのまま二人歩いて玄関までたどり着く。慣れた鍵を取り出してドアを開けたら、そのまま玄関で眠ろうとする彼女に声をかけても起きる気配は見られない。

「……このままじゃだめ、よね」

 ここまできたら、最後まで。
 思えばこんな風に最後まで人を介抱したのは会社員時代以来だろうか。しかもその時は大変だった記憶しかないけれど、彼女に対してそんな感情はなぜか一切わかなかった。
 どうしてだろう、と考えても今の私にその答えがすぐ出てくるわけもなくて。
 でもただ、このままにはしておけない、放ってはおけないと。

「ごめんなさいね、失礼します……」

 あとで彼女にいくらでも怒られる覚悟を決めて、彼女をそっと抱き起こす。重いなぁ、と思うのは少しだけ大きな体に、たくさんのものをしょい込んでいるからだろう。

 眠った彼女は、何も知らない。
 私がこの時から貴女に少しだけ興味があったこと。そしてその理由は、当時の私も知らないことで、それに気が付くのはもっともっと、先の話。

「いらっしゃいませ――あっ」

 そして今日は、金曜日の夜。引き戸が軽い音を立てると同時に入ってきた影に視線を向けた、その先にいるのは。

「どうも、こんばんは……」

 照れくさそうに入ってくる、最近できた若く珍しい常連さん。
 まだまだたくさんの可能性を秘めた彼女は、まだぎこちなさも残りながらも笑顔で応えてくれるようになってくれて。
 だから私もその言葉にそっと、そっと応えるように微笑んで。


「こんばんは、柳さん」


 これはそんな、私と彼女――柳わかばさんのお話。
 そしてまだ、私は知らない。
 彼女が私の心に秘めた感情を芽吹かせようとしていることを――――


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?