菓子折り一つ

 あの不思議な居酒屋であった出来事は、本当に夢だったんじゃないかと今でもたまに思う。というか、あんな夢みたいな出来事が本当に現実にあっていいのかな、と考え込んでしまうくらいには素敵なひと時だったと思う。
 気が落ち込んでいた私をそっと慰めてくれた、和服の女将さん――野宮さんに思いをはせて早一週間。この間のお礼とお酒のせいで覚えていない記憶について謝罪をしないといけないと思いつつ、その足は遠のくばかりの日々が続いていた。

「はぁ……」

 そう。なんせ仕事が終わらない。

「やなぎぃ、ため息ついてる暇あったら手ぇ動かせぇー」

 間延びした上司の声。繁忙期ではないと言え事務処理自体はそこそこ残っているし、これが終わらないと帰れないのは前々から言われていたことだ。今更頭を抱えている自分もさることながら、目の前に出されている書類の量にため息が止まらない。
 上司も私の監督をしてくれていることもあって、最近かなり残業に付き合わせてしまってばかりだ。たまには定時で上がれるようにしたいと私も思うのだけれど、やってもやっても終わらない仕事に半分笑えてくるほどだ。

「だって終わらないじゃないですかこれ……」
「そんな弱音いくらはいても書類は減らんぞー」
「そんなぁ……」

 わかっていることだ。こんな弱音ばかり吐いていたって何も変わらないことも、このままだらだらと過ごしていたらいつまで経ってもあの場所へ行けないことも。
 ……頭ではわかっていても、動かない手はどうにかならないかなぁ。

「まぁ……最近お前も頑張ってるからなぁ。それ終わったらどこか好きなところでも連れてってやるよ」
「えっ!?」

 上司の思わぬ提案に、思わず机から身体を乗り出した。ついでに机に脚を思いきりぶつけてじんじんと痛んだけど、今はそんなことを気になんてしていられない。

「おっ、なんだ? どこか行きたいところでもあるのか?」
「えっ、いや……」

 勢いよく言ってみたものの、上司にあの場所を教えるのはなんだかもったいないような気がしてきた。
 あそこは繁華街から離れているし、知る人ぞ知る、といったような場所だ。おいそれと上司を連れて行って、そこから会社の人たちがきたら私だけの場所じゃなくなってしまう。ただでさえ、社内でもまだまだちゃんとポジションを確立できていない中途半端な私が唯一心を落ち着けられる場所に、果たして上司たちを連れて行っていいものだろうか。

「あっ、そうだ!」
「ん?」
「これ、終わったらそのまま直帰でもいいですか!?」

 我ながら名案だ! と提案してみたそれは、上司を苦笑させるには十分すぎた。

「直帰ってお前……この後外回りの予定なんてないじゃねぇか」
「あっ」
「お前、そんなに早く帰りたいんか」

 上司の言葉に返す言葉などなく、小さく頷いて見せるとそうかそうかー、と笑われる。

「お前がそんなに早く帰りたがるなんて珍しいなぁ、なんかあったんか?」
「えっ、いやその」
「ちゃんと説明出来たら仕事途中でも定時で上がっていいぞぉ」

 上司の言葉に、再び言葉を詰まらせる。そんなことを言われるとは思ってもいなくて、しかしその条件はあまりに私にとって甘すぎる。なんかいいことでもあったのかな、と首を傾げかけたが、あまり深追いするとこの条件がなかったことにされかねないからぐっとこらえる。

「えっと……お礼と謝罪をしに行かないと、行けなくて」
「お前、またなんかしたんか?」
「いやいや、お客さんじゃないんですけど……その、こないだ知り合った人にもしかしたらご迷惑をかけたかもしれなくて」
「あー……なるほど」
「なので、何かお詫びを持っていこうかな、って……」

 なんとなく考えていたことを口に出してみると、意外にもするすると言葉が続く。上司のすごい所は私が考えていることを言葉にさせてくれるところだし、そこに対して色んな指摘をくれるところだ。
 今もこうして私が話した内容をうんうん、と何度か頷いて聞いてくれるし、そのあと少し考えてからよしっ、と頷いた。

「わかったわかった。もう上がれる準備していいぞー」
「えっ!?」

 詳細も聞く間もなく、了承してくれる上司に思わず再び机に身を乗り出した。学ばない私の身体は再び机に思いきり脚をぶつけて、なんなら今度はゴンッ、と鈍いいい音が社内に響く。そんな私の様子が面白かったのか、はっはっは、と笑われてしまった。

「そんなに慌てるような感じなんだろう? なら早く言った方がお前も集中できるんじゃないかー?」
「そうですけど……でも、」
「俺の気が変わらんうちに早く仕度したほうがいいと思うぞー」

 上司の言葉に、はっと我に返る。
 上司の気が変わってしまったら再び目の前の書類との戦いが始まってしまう。そうなればあの場所へ行くのはまた遠くなってしまうだろう。せっかくのチャンス、こんなところで棒に振るわけには行かない。

「あ、ありがとうございます!」

 慌てて準備しながらお礼を言えば、ひらひらと手を振りながら机に向かう上司。思えば彼の手を止めて話を聞いてくれていたことに気づいて、さらに申し訳ない気持ちにもなりつつ、だけどそんなことを考えていたらいつまで経ってもここから出られないから。
 今度何か――と思うのはきっと罰当たりじゃないよね?




 慌てて準備をして、急ぎ足で向かうのは最寄り駅から少し離れた住宅街。そこにポツンと存在する小料理屋は、夕方でも変わらず周囲の風景と少し一線を画している。
 あの時はふらふらと当てもなく歩いていたからたどり着けるか不安だったけれど、家から近かったこととあの時の記憶を何とか引っ張り出すことで何とかたどり着くことができた。
 ……の、だが。

「閉まってる、よねぇ……」

 腕時計を見ればまだ17時を過ぎたころ。居酒屋の開いている時間ではないし、もしかしたら今日は定休日だったかもしれない。そんな当たり前の可能性に気づけなかったのは、全くもって私の不可抗力だ。
 肩を落として、手元にあるお菓子の袋がかさりと音を立てる。持ってきたはいいけれど、これを渡す相手は多分ここにはやってこないかもしれない。

「はぁ……」

 零れたため息は、誰にも拾われることはない。
――と思っていた、その時だった。

「ん?」

 玄関先で肩を落とす私に、低い声が聞こえてくる。思わずそちらに振り返ってみると、私は驚いて肩を震わせてしまった。
 私よりも一回り大きく、またがっしりした身体つきの男性だ。むすっとした表情の少なさもさることながら、その無言の圧が私の身体を縮こまらせる。オールバックの髪型も相まってその強面も強調されているように感じる。
 ……端的に言って、怖い人が目の前にいます。

「ひっ」

 耐え切れなかった私の口から悲鳴に近い声が漏れて、そのまま身を縮こまらせてしまう。そんな私を見てその人は少し首をかしげてこちらをじっと見つめてくる。

「まだ、開店時間じゃないはずだが」
「あっ、ご、ごめんなさい……!」

 反射的に謝ってしまう。一刻も早くここから去らねばと思うのに、そういう時に限って私の身体は全く言うことを聞いてくれない。なんかこんなこと前にもあったような気がするけれど、その時とは状況も何もかも違っていて、色んな意味でパニック寸前だ。

「……あぁ、確かこないだの」

 しばらく考えてから、出てきたのはそんな言葉だった。その言葉の意味を測りかねた私はえっ、と声に出して聞き返してみると、その人の眉間にぐっとしわが寄る。強面な表情がさらに厳しいものに変わった気がして、再び肩を縮めた。

「すまない、怖がらせるつもりじゃ、ないんだが」

 あー……と、言葉を探す表情に、少し既視感を覚える。
 私はこの表情を知っている。
 懸命に記憶の奥底に眠っているそれを引っ張り出そうとしていると、間もなくその既視感の正体が露になった。

「あら、兄さん。買い物終わったの?」

 そう。それは私が会いたいと強く思っていた、その人の声によって。

「あっ」
「ん?」

 強面のその人と並ぶは、和服の女性。その人は私が会いたくて、話したくて、謝りたかった人。
 そしてその人からこぼれた、「兄」という言葉。

「……あー!」

 並んでわかる、その既視感の正体。面影の似る二人。先ほどまでの会話。
 思わず二人を交互に見やってから声が出てしまうのだって、許してほしい。

「あら、柳さん。こんばんは」
「あぁ……やっぱりか」
「兄さん、もしかして柳さん怖がらせてたの?」
「そんなつもりじゃ、なかったんだが……」
「でも兄さん、そんな怖い顔してじっと見てたらみんな怖がるわよ」
「むっ……」

 私をおいて繰り広げられる会話について行けないが、つまりはこういうことらしい。

「紹介遅れてごめんなさいね。彼は私の兄でここの板前をしている――」
「野宮洋貴≪のみやひろき≫だ。すまない、紹介が遅れた」

 私の怯えていたその人は、野宮さんのお兄さんだった、ということで。
「まぁまぁ立ち話もなんですから、お入りになって?」
 そして私は、開店前の”のみや”へ、ご招待されたわけである。

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