導かれた扉の先 -Prologue-

 あそこに行きついたのは、本当にただの偶然であった。
 買えり間際に発覚した、大型連休前の確認漏れ。それに対して私の明らかなミス。一年目だからといっていつまでも学生気分でいるんじゃない! と上司にこっぴどく怒鳴られ、その後処理をしていたら腕時計の短針はもうすぐ九時を指そうとしたころだった。当然社内に人気はなく、華の金曜日だというのにオフィスで一人作業をしている自分が寂しく真っ黒なディスプレイに映る。連休明けでやる気も体もスイッチも入れ直すためにと張り切って飲み会の話をしていた同僚たちの表情を思い出し、ため息がこぼれた。
 私も誘われていたけれど、この惨状で催促をしてくる人などいるわけがない。
 せっかくの休みだけれど、明日も出社かな、と途方もない業務量を尻目に、立ち上がって帰り支度にとりかかる。
 希望していた会社に就職して早一か月、私こと柳わかばは既にめげる一歩手前だった。
 元々容量がいい方ではなく、どちらかといえば鈍くさい。一つ一つに対して他の人より時間をかけて理解しなければ身に着けられないし、そのせいで色んな人に迷惑ばかりかけて何とか生きてきた。社内では”初心者マークのわかば”なんてからかう人もいるけれど、いつしかそれは私の愛称になりつつある事実に、一切の文句をつけられない自分が恥ずかしくてたまらない。
 今日のミスだって……といくら自分を責めても終わらないと言い聞かせ、会社を後にふらふらと自宅へ歩き出す。
 会社から数駅電車に揺られれば、あっという間に最寄り駅。上京して電車の大矢さや近さに感動していたのも数週間だけで、今はその新鮮さより駅前の人の多さに眩暈を起こしそうになる。
 さすが連休明けの金曜日、さらには十時前ともなれば陽気な人たちが大きな笑い声をあげながら覚束ない足取りですれ違っていく。ぶつかりでもしたら難癖を付けられてしまう気がして、たくさんの往来を何とかすり抜けて、みんなとは逆の道をひたすらに歩く。五分もすれば喧騒はあっという間に小さくなり、周りはすっかり住宅地。
 大なり小なり、本当は私もあの喧騒の中にいたはずの一人だったのに。
 なのに今は、終わりきらなかった仕事を持ち帰り、一人寂しく帰っている悲しい女の影だけがそこにある。こんなはずじゃなかったのに、と繰り返したところで誰の返答もあるわけがない。
――さみしい。
 ありていの感情を零すと、今度は目元が歪んで、地面にぽとりと水滴がこぼれて染み込んだ。それが自分の涙と気づくともう一粒、また一粒と次々に落ちていき、ついにその場にしゃがみこんでしまった。
 明るいだけが取り柄なのに、今はその取り柄さえ隠れている。こんな私なんてきっと、会社だって――
 一瞬でも浮かんだ最悪な想像に首を振って否定して、頬を打ち目元をこすって振り払う。
 私だって、きっと。
 自分に言い聞かせるように大きく頷いて、帰り道に目線を置いた、その時だった。
 住宅地の中に似つかわしくない、煌々とした明かりが私の目の前を照らしていた。
 明かりだけではない。マンションや戸館が立ち並ぶ中に一つ、時代に取り残されたような和装の門構え、雨風にさらされて所々さびれている蛍光灯の入った看板。玄関を隠すようにかかっている暖簾には看板と同じ”のみや”とだけ書かれている。芸術とかには疎い私でも、その字は綺麗だと思わず見とれてしまう程だった。
 呆然とその異質な建物に見とれていると、自分がそこに近づいていることに気づかず、はたと正気を取り戻した時には、その引き戸に手をかける寸前の所だった。
 得体のしれない建物に手をかけそうになっていた自分に驚き、慌てて手を離すけれど、その勢いで戸に当たりガシャン、と大きな音を立てる。そのまま後ずさればよかったのに、脚に根が生えたようにその場から動くことができなかった。
 行かなきゃ、帰らなきゃ。
 はやる思考と裏腹に動かない身体。大きな矛盾に焦っていると、ついに目の前の扉が動いてしまう。
――もう、ダメだ!
 怒られるいくつものパターンを想定して、見せの主を見た途端。

「あっ……」

 言葉を失う、とはまさにこのことだと思った。
 和服美人。一番に受けた印象はあまりにも陳腐で、言葉で表すなどできない人。こんな人が都内に、しかもこんな路地裏にいるなんて夢にも思うまい。テレビの中でもこんな綺麗な人は限られているだろうし、凛とした雰囲気はきっとすらっと伸びた背筋のおかげだと思う。
 それに比べて、今の自分は。
 改めて自分の姿を思い浮かべて、似つかわしくない、と素直に感じた。
 泣きはらしたのが一目でわかる目、無理矢理こすって赤くなっているであろう頬、あまりの美しさに呆然として開いたままの口。どれをとっても、今この場に絶対に会うはずがない。

「す、すみません。わたし、みたいな人が……」

 ようやく言葉になったそれは、ひどく弱くて、惨めなものだった。
 なのに目の前の美人さんは私の姿に一瞬目を見開いて、その後ふわりと優しい瞳で私を確認したと思ったら。

「今日は誰も来ないから、良かったらどうぞ」

 扉の先へ手招きしながら、透明感のあるような声で私を受け入れてくれたのだ。
 さっきまで動かなかった脚が、嘘みたいに動く。吸い込まれるように自然と、私は彼女の元へと向かっていた。
 これは冴えない私――柳わかばと、”のみや”の若女将、野宮時子さんとの出会いの話。


のみやさん 登場人物プロフィール

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