始まりの足音
暖簾をくぐったその先は、やっぱり私がいていいような場所じゃないと改めて感じた。
和装の外観に劣らぬ内装は、カウンターが四席、テーブルが二席のこじんまりとした空間だ。しかしながらそこで纏っている空気はとても私のような人が入っていいような空間ではない。もっと上の、私の上司よりも上の人たちが来るような場所だとわかって、私の足は再びすくみそうになる。
「お好きな席へ、どうぞ」
玄関先で立ちすくむ私を見て何を思ったのか、女将さんはいつの間にか私の元からカウンター席の向こう側でにこりと微笑んでいる。そんな顔をされてもこんなところに来たこともないし、なにしろこんなところでのご飯代を払える自信がない。
「いや、あの」
帰らなきゃ、迷惑になる前に。
頭の中ではわかっているのに、どうしても言葉に出せない。女将さんの微笑みが私の視線を射止めていて、そのせいで前にも後ろにも進めない。
「ほら、そこにいたら風邪ひいてしまいますから」
「あ、ぅ……」
笑顔の圧が、今の私には重くのしかかる。彼女にはそんなつもりはないのかもしれないけれど、今の私にはそんな小さなことですら縮こまってしまうくらいメンタルが限界だった。
無言の時間。先に折れたのは私の方だった。
恐る恐る、という言葉が一番合っているくらいゆっくりと女将さんのいる方へ足を進める。狭い店内だからすぐについてしまうのが目に見えていたのに、最後の抵抗と言わんばかりにカウンター席に着くまでの時間はゆっくりである。
「……らっしゃい」
カウンターについた瞬間、奥の方からの声にピクリと身体を震わせる。女将さん一人だけだと思っていたから、思わぬ声の主の登場に私は何もできずに身体を硬直させる。
「時子、今日は店仕舞いじゃなかったのか」
「さっき暖簾を片付けようとしたら可愛らしいお客さんがいたから」
どうやら奥の人はこの店の人らしい。そりゃそうか、女将さん一人で接客も料理もできないもんな、という考えに至った頃には彼女の視線は再び私の方へと向かっている。
「ごめんなさいね、ぶっきらぼうな人で。少し人見知りで、あまり厨房から顔を出さないものだから」
「あ、いえ……」
ぶっきらぼうなのは今の私も同じだから何も言えない。そもそもここに来てからまともな言葉を発せていない気がする。
今の状況を理解して、消沈していた気持ちに拍車がかかる。まともにコミュニケーションも取れない人に、営業なんて務まるものか、と。
「何かここに来るまでに食べてきてますか?」
「いや……仕事、帰りだった、ので」
「あら、こんな遅くまで。お疲れ様です」
労いの言葉。それはきっと素直に受け取ればいいだけなのに、こんな遅くまで残る原因になったことを思い出して再び気が沈む。
本当だったらこんなはずじゃなかった。遠くから聞こえる喧騒の中にいて、一人きりでとぼとぼと帰宅しているはずじゃなかったのだ。
「ひとまず、何か飲まれますか?」
私の様子を見て何かを察したのだろうか、女将さんはメニューを引っ張ってきて私の前に差し出してくれる。そのまま受け取って中を広げてみるけれど、ドリンクのメニューだけでもたくさんありすぎてどれを選べばいいのか私にはわからない。
思えば一人でこんな格式のあるような所に来たことなんてない。来たことのある居酒屋といえばチェーンでどこにでもあるような場所ばかりだし、お酒だってそんなに詳しいわけじゃないから適当に周りに合わせて飲んできただけだ。それだって強くないせいか、一杯飲めばすぐに悪く酔ってしまうし、それで迷惑をかけた数だって数えきれない。その度に巻き込まれる同僚たちからの視線のせいで今ではあまり外で飲まないようにし始めたくらいだ。
「……もしかして、あまりお酒はお強くないですか?」
「そ、そうですね……あまり、詳しくなくて」
ありていを言えばこの言葉に尽きる。美味しいお酒も、飲みやすいものも、その違いがよくわからない。お酒はお酒でしかないのでは、と思っている私の表情を見て何かを察したのか、女将さんはそれなら、と一言。
「もしよろしければなんですが、梅酒なんていかがでしょう?」
「梅酒?」
「はい。飲みやすくて美味しいとお客さんからも評判なんです」
柔和な表情のまま少し声を弾ませる女将さん。その表情に偽りはなさそうだし、この際どうなってもいいと半分投げやりだった私はそのまま小さく頷いた。
「あまりお詳しくないと言うことなので……ソーダ割りでいかがでしょう?」
「あっ、はい。それじゃあそれで……」
よくわからない、といった表情の私を見て微笑む女将さん。ついでに何か作りますね、と背中を向けた彼女を見て、自分のお財布事情をはたと思い出す。
もしかしたらここでとんでもない金額が出てしまうかもしれない。こんな場所で頼むのだから、私の思っている金額の倍以上は――と。
「あ、あのっ!」
ようやく少し大きめの声が出て、女将さんの手を止める。くるりと振り返る姿すら綺麗だなぁ、と見惚れてしまいそうになるけれど、今はそれどころじゃない。
「私、そんな持ち合わせなく、て」
「……ふふっ、大丈夫ですよ」
「えっ?」
「メニュー見ていただければ、わかりますから」
私の慌てた様子を見て微笑む彼女の言われるままに先ほどもらったメニューを再び開く。そこにはドリンクだけでなくご飯もののメニューもしっかり載っていて、記されている金額を見てぽかんとした。
知っている金額だ。何一つ変なところなんてない。強いて言うならお酒の中の日本酒とかの中には一部高いものとかもあるけれど、それを避ければ概ね私の知っている居酒屋の金額のそれと大差がない。
「結構驚かれる人もいるんですよ。こんな小さなところですし、この外観だとどうしても、ね」
「あ、あはは……」
全部その通りで、私は苦笑いを返すことしかできない。そんな私の様子を見てさらに面白くなったのか、こらえ切れなかった笑いが口を抑えていても肩が震えてばれてしまう。
「お客さんくらいのご年齢だと、やっぱり怖いって思っちゃいますよね」
「あ、あまりこういうところこないので……」
「それならお客さんのお財布に合わせて何か作りますけれど、いかがしますか?」
店内に私しかいないからこんなことをしてくれるのだろうか。それとも――なんて都合のいいことを考えかけて、すぐに思考をストップさせる。
体のいいことを考えすぎだ。女将さんだって商売でやってるのだから当たり前じゃないか。
「そ、それでお願いします……」
でも、そのお誘いは正直ありがたい。言い出しにくいことも、女将さんは私の表情を見て察してくれるからすごく助かるし、次の言葉を言う前に率先して会話を先導してくれるから私も少しずつ話しやすくなっていく。
――あぁ、いいなぁこういうの。
上京してちょっと憧れていた会話を、少し出来ているような気がした。
「それじゃあこの後おつくりしますので――あっ、」
私のお財布事情も少し話したところで再び女将さんが厨房の方へ行きかけたが、何かを思い出したようにはたと止まる。そんな彼女の様子に私はまた何かしでかしたのかと身体を固まらせると、そうじゃないですよ、と一言加えられる。
「ここに来たのも何かのご縁ですし……お名前、伺ってもいいですか?」
「えっ?」
思わぬ質問に、私はきょとんとしてしまう。
初対面で、まともな会話もままならない私に名前を?
「あっ、すみません。先に私の方から名乗るべきでしたね」
私、野宮時子と申します。
微笑む女将さん――野宮さんの表情に再び私の視線は奪われる。
そして間もなく、あれ? と疑問が浮かび上がってきた。
「……えっ、お店の名前、じゃ」
「小料理屋っぽいからって、兄が付けたんです。漢字だと堅苦しいから平仮名にしようって言ったのは私なんですけど」
ちらりと視線を厨房へ移す。その奥に見えた板前さんのような風貌の人がきっと彼女の言うお兄さんなのだろう。
自己紹介を先にされて、固まる私に野宮さんの視線が私の方へ。そこではっとした私は少し姿勢を正してから。
「え、っと……わたし、は」
――柳わかば、です。
ぎこちなく名前を言った私にふわりと微笑む野宮さん。
これが私たちの、初めましてのお話。これから始まる物語の、その先駆け。
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