頭を真っ白にできたことがない。 何も考えない、って難しい。 わたしの脳内はいつも拙い言葉に埋め尽くされている。何かをずっと考えてしまう。それは今起きている事象だけでなく、漫画の世界に行けたら…みたいな理想とか夢とか、もしくは過去の、いわゆる黒歴史とか、はたまた昔一緒にライブハウスを回っていた、今活躍中のシンガーソングライターのこととか、 もう本当になんでも考え込んでしまう。 そしてふとした瞬間に落ちる感覚がする。 落ちる、というより吸い込まれていくような、いや落ちている感
書き連ねられた文字の羅列が気持ち悪くて仕方がなかった。 断捨離をしようといろんなものを手にとっては捨てた。 これだけは早く捨てなきゃな、って思っているのに捨てられないものが2つある。 アコースティックギターと殴り書きの歌詞ノート アコギに関しては売るなりあげるなりしようって考えてはハードケースの中に眠っている、眠らせている。もう夏も過ぎたのに冬眠中、季節が多分2、3回は巡ってるね。 歌詞ノートとか特に燃やすゴミに出したらあっという間なのになんだか捨てられない。 わたしは
羨ましいなって思う。 わたしは多分社会適合者だ。 周りの人間にどうしたら気に入ってもらえるかわかっている。小さな波風すら立たせたくないわたしはそういうものをのらりくらりと避けて、そんでもって忍耐力というものもそこそこ備えられているので、理不尽なことを言われても反論はしない。 否、反論できない。 そういう理不尽が起きるといつも実感する。 わたしはわたしが1番かわいいのだと悟る。 わたしはとてつもなくマジョリティなのだと悟る。 わたしは日本によくいる“普通”に分類される人間
生活するためにわたしたちは日々、その時々、選択を強いられている。 ルーティンだって選択だ。 その、いつもの流れの通り、事を遂行するという選択。 朝起きる起きないだって選択だし、朝ごはんを食べる食べないも選択。 なんでも選択だ。 天才を天才という言葉で終わらせてはいけない。 なぜあの人たちは天才なのだろう。 言葉選びの秀逸さとか、聴き馴染みやすいメロディだとか、安いギターなのに高そうに聞こえるとか、 そこに至るまでの日々の努力、ひたむきさを尊敬すると同時に、わたしは捻くれ
あのライブの時のMCの内容とか、 卒業式の長い校長先生の話とか、 生まれた時の母の表情とか、 忘れたくないのに忘れていることやものが多い。 友人Sの家とわたしの家の距離はざっと45km。 会いたいけど電車で互いの家を行くとなると1時間半は余裕でかかる。2時間はかからないけれど。 会いたい、というか安否確認というか。 似たような境遇で、似たような価値観を持っているようなわたしたちは仲良くなるのは必然で。と言いたいだけで実はそうでもなかった。 天才な彼女の価値観や言葉、仕草
将来の夢ってなんだったんだろう。 漠然とした「こういう大人になるんだろうな」じゃなくて、やりたい、なりたい、と願ったもの。 小学生の時に憧れたアイドルは画面の向こう側でキラキラ輝いていて、 その次に出てきたあのシンガーソングライターがかっこよかった。 なんだかカメラを独り占めしているみたいで。 1人であのキラキラしたセットを背負っているみたいで。 向こうから見える景色ってなんなんだろう、と単純に疑問に思ったのを覚えている。 あれから彼女の歌をメモして、がんばって記憶しては
忘れ物をしないように。 家を出る時、母が言っていたセリフ 部活で遠征をした時、先生や部長が言っていたセリフ 飲み会後にわたしが言うセリフ 必ず机の下や椅子の上、かごの中、 みんなが通った後を通って確認をする。 忘れ物はないか。 誰よりも入念に、本当に忘れ物がないのか確認をする。 「からっぽといると気を使わなくて済むわ〜」 なんてあの子は言った。 あの飲みの席で。 彼女に誘われたカフェで。 わたしは擦り減った心をそこに置いてきて、代わりに疲労を持って帰ってきてい
「からっぽちゃんっていいよね、たくさんの人に慕われてて。」 異動してきた同い年の女にそう言われた。 彼女は精神疾患があり、一度休職したのち戻って来たが、結局前の職場でまた病み、わたしのいる部署にやって来た。 わたしの部署は、とても優しい人間が多いと言われている。そのため、働きやすい環境と周りに思われているため彼女はやって来た。 異動して来て数ヶ月経ち、彼女が周りと馴染んだ頃、わたしはそう言われた。 文面だけ見れば、ただ褒めてくれているように思えるのだが。 人の振り見て我
花嫁修行だとか、いい人になりきるとか、貯金とか、勉強とか、勿体無いから捨てられない、とか。 日々、来ないであろう「いつか」のためになにかをたくさん準備していることが多いと感じる。 子供の頃、漠然と将来は安定した職業に就くんだろうな、なんて思っていた。そしていずれか結婚をして子供を産む、とも。 アラサーになってから思うのは、そんなみんなが描くような将来は当たり前にやって来てはくれないということ。 (わたしは人任せな部分があるため、「やって来てはくれない」という書き方をした)
わたしのSNSアカウントのフォローフォロワーの人数はどれも50人以下にとどまっている。 この人とは多分もう連絡取らないだろうな、という人をわたしはすぐ消すのだ。それは嫌いとかそういった感情だけでなく、その人に対して興味ないと思ったり、わたしのこの先の人生において必要ないと思ったりしたら消す。 関係というものを断捨離するのだ。 断じていっときの感情で消すなんてことはしない。 はずだったのだが。 相手には一切非がないのに、わたしは彼女の連絡先を消そうとしていた。 彼女はいわゆ
春泥棒、という曲がある。 MVを見た瞬間、あれ、ノーチラスの人やん。となった全編3DCGアニメーションの動画も相まって、落ちサビの部分からラストにかけての盛り上がりでわたしは必ずと言っていいほど泣く。 n-buna氏は、春を“月並みだが命にしよう”と、 春を命、風を時間に喩え、この作品を春泥棒と名付けた。 (以下引用URL) https://x.com/nbuna_staff/status/1347878777817206789?s=46&t=wO7VGGHkXqn
これならわたし永遠と食べられるわ、 なんてほざいていたあの頃をふと思い出した。 小学3年生頃から6年生まで春の終わりから秋の終わりまで、毎晩パピコを食べていた。 6年生の秋の終わり、それは突然やってきた。 なんだか今まで食べていたような“美味さ”を感じられなくなったのだ。 いわゆる飽きというもの。 他に、ブラックサンダーや目玉焼き、枝豆にタラタラしてんじゃねえよ、とかとか。 わたしは好きなものは決まって、これなら永遠と食べられるかもしれない。と毎日食べてしまう癖がある。
なんで出てくれないんだろう、といつも思う。 わたしは面白いくらいに熱が出ない。 風邪を引いても、大きな怪我をしても、心が病んでも。 熱が出る人がいつも羨ましかった。 どんなに頭が痛くてもわたしの体温は36.4度をキープする。 熱が出さえすれば、休む口実が簡単にできる。 熱が出さえすれば、嫌なあいつに合わなくて済む。 熱が出さえすれば、周りの人々に心配してもらえる。 熱が出ていないわたしはまだ限界ではないということか。 どんなに苦しくて死にたいと思っていても、わたしは“
12月末、必ず誰かに伝える言葉 「良いお年を。」 わたしは出来得る限り心を込めて人に伝える。 いつだって明日が悪い日だと思っていたら、生きられるもんも生きられない。 本年がどんなに悪い年だったとしても、明くる年までもが悪い年ならば生きる希望を見出せない。 忘年会ごときで嫌な思い出全てを忘れられるとは微塵も思っていないが、 それすら忘れられるほどの良い年を。 あなたに幸運が訪れますように。 わたしはそんな祈りを込めて、その文字を言葉にするのだ。 2024年 明けてものの数
私の嫌いなワードランキングでトップ10に入るであろうこの言葉。12月になるとより一層聞く機会が増える。 うん、もう、聞き飽きたわ。 年末の大掃除、断捨離やら整理整頓をするようになる中、部屋だけでなく居間の掃除もしていると、大抵要らないであろうものが出てくる。 その際、それらをわたしが“要らない袋”につっこもうとすると、 「ちょっと待って!!!」 という声が飛び交う。 でも誰も使ってないじゃん。 なんて言おうものならヒスな母や姉が反論してくる。 「まだこれ使えるじゃん。」
恋をすると、たいていの人は対象の相手と付き合いたいと思う。らしい。 恋人が一切できない友人と話していた時、彼女はこう言った。 「私と付き合ったら絶対幸せにしてあげられるのに!!」 「え、何その自信…根拠は?」 「ない!」 猪突猛進タイプの彼女は目を輝かせながら、その後理想のタイプと付き合ったらしたいことを延々と話していた。内容は覚えていないが、ひとまずその会話だけは頭の中にズドン!と残っていた。 根拠のない自信ほど怖いものはない。 実際付き合えたとしても、本当に幸せにし