まだ眠れないの?【一二〇〇文字の短編小説 #5】
昨日から妻のブルックが入院している。のどの奥の腫れがひかず、手術を受けて一週間ほどを病院で過ごすことになった。
ロンドンの街は雪がちらついている。入院二日目の妻を見舞った僕は夕方、誰もいない自宅に帰ってきた。いつもとは違い、ひっそりとした空気に、孤独を感じざるを得ない。キッチンのシンクにはいつかのポーランド旅行で買ったマグカップが二つ並んでいた。濃紺の体に白く小さな花がいくつも描かれたカップは、どちらの底にもうっすらとコーヒーが残っていた。
結婚して五年目、久しぶりにひとりになった僕は、冷凍のフィッシュ&チップスをレンジで温めた。待っている間に冷蔵庫からマーシャル・アンプトアップ・ラガーの缶ビールを取り出し、ダイニングチェアに座って気を紛らわすようにのどを潤した。レンジがチンと小さく響くのと同時に、スマートフォンが鳴った。
見慣れない電話番号だったから、最初は無視した。いったんは切れたけれど、また電話がかかってきた。何度目かのコールが鳴ったあと、僕は電話に出ることにした。
「もしもし」
「ねえ、まだ眠れないの?」
妻の声ではなかった。僕は「どちらさまですか?」と訊いた。電話の向こうの女性は「わたしよ」と答え、もう一度「まだ眠れないの?」と問いかけてきた。
「だって、まだ夕方の六時すぎです。眠る時間じゃない」
「そうなの? わたしがいるところは朝方の三時だけれど」
「じゃあ、申し訳ないけれど、間違い電話ですよ」
「ああ、ごめんなさい。でも、あなたの声ってイアンとそっくりだわ」
自分の名前が呼ばれ、ぎくりとする。思わず「偶然ですね、僕の名前もイアンですよ」と答えた。
「わたしはブルック」とその女性は話をつないだ。妻と同じ名前に、さらにぎくりとする。「ずいぶんな時差があるみたいだけれど、あなたはどこにいるの?」
「ロンドンです。今日は雪が降っている」
「ロンドン! わたしもロンドン生まれよ」
「でも、いまはロンドンにいない」
「そう、トーキョーで英語教師をやってるわ」
「そうなんですね。それで、誰に電話したつもりだったんです?」
僕はそう訊きながら、壁掛けの棚に目をやる。ワルシャワで撮られた写真が白いフォトフレームで飾られていて、僕の隣でブルックがほほ笑んでいる。
少し黙ってから「誰だっていいじゃない」と彼女は言った。「とにかくごめんなさい。間違い電話なんて久しぶりだわ」
どういうわけか、僕は見知らぬその女性に妻が入院していることを伝えたくなった。でも、缶ビールをひと口飲み、そうするのをやめた。代わりに「気にしないで。眠れるといいですね」と言って電話を切った。
僕はレンジに残されたままのフィッシュ&チップスを気にかけながら、ダイニングチェアから立つことができない。妻がいない世界はざらついた感じがする。僕は二つのマグカップを洗おうと思うが、「まだ眠れないの?」という声が耳に残ったまま、ずっと動けずにいる。
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