最後の一の悟り
実相は、人間が考える程、甘きものではない、ということが分っていない。例えば、悟り。生涯で、九の悟りを得たとしても、最後の一の悟りが未完であるならば、人生成就することは無い。即ち、成仏出来ない。人間、祈れば、賽銭やお布施を積めば、懺悔をすれば、信ずれば成仏できる、救われると思っている。しかし、完全なる生き様の人生であることが前提にある成仏は、それでは出来ない。また、善悪についても同じ。人間は、誰しもが善悪の両面を表裏一体として持っている。しからば、悪を克服することは至極困難。とはいえ、人生、微悪への気付きすらも得られず、未完の善人(自負の善人)であるのであれば、これも成仏が難しい。好もうが、好まざろうが、甘さは一切通用しないのが実相。いくらお金を積もうが、派手な葬儀をしようが、何度祈りを捧げようが、“如何に正しく生きたか”が問われるのみ。誰であれ、温情措置が講じられることない。従って、人間誰しもが死んであの世に逝った時、その定めに従わなければならない。あの世で慌ててみたところで、土下座して謝り、反省したところで、何も起こらない。しかし、人間には、この世で生きている一分一秒まで、最後の一を悟る機会は与えられている。悪を克服し、完善なる境地に至ることも出来る。もし今、未だ先の見えぬ状態であれば、性根を入れ替え、心して正しく生きる在り方を学び、日々の精進に心掛けるべし。
そのことを肝に銘じ、自分自身の生き方を反省し、微悪の根源に気付き、十の悟りへの境地を心して目指します。
有難う御座います。
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幸せを呼ぶそよ風チャリダー/サステナビリティイノベーティブコンサルタント。「感謝感動を世界に地球に」のカングロ代表、ザッポス研究会、イノベーションサロンZ、システムD研究会、サステナ塾、セブメディ創設者