いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
前回、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)について書いてをります。今回は、前回の西行に続き、実方について見て行きます。実方は藤原実方のことで、平安時代屈指のイケメンです。「百人一首」にも「さしも知らじな 燃ゆる思ひを」の歌が入つてをり、よく知られてゐます。なほ、私が高校生のころ、この「百人一首」の歌が好きで、かういふ歌を異性からもらひたかつたものでした。
『芭蕉の俤』の「第二 実方」の内容を見てみませう。
実方の墓
JR東日本、東北本線の名取駅からタクシーで五分ばかりのところに実方の墓があります。ひつそりとしてをり、訪れる人も少なさうです。後世の人が植ゑたであらう、「かたみのすすき」が墓に向かふ途中にあります。
なほ、「仙台の旅」は、私が実方の墓を訪ねた時のことにも触れてゐます。
実方の評判
実方は、評判の高い人物でした。どのやうな評判だつたのでせうか。以下をご覧ください。
即座に歌を詠み返す才能は天性のものといつて良いでせう。まさに、彼は天才の一人でした。
私も和歌(やまとうた)を嗜んでゐますが、当意即妙なる歌、即座に返すのは難しい。
実方の慌てぶりが伝はりますね。清少納言は抜群の才女ですし、実方も天才。二人は、お似合にのやうに感じます。しかし、お似合ひの二人はなかなか続かないものなのは、今もむかしもさう変はらないものですね。
以下の話しは、有名な事件に触れてゐます。諸説ありますが、お読みください。
実方が陸奥守に任じられたのは、長徳元年正月十三日、そしてその赴任は秋の末である九月二十七日のことでした。このとき、
と歌ひ、別れを惜しんだのでした。なほ、実方の陸奥行きについて、諸説あるところです。
『源氏物語』の主人公、光源氏は実方もモデルにしたといふ説です。興味深いものです。
実方の死
陸奥に赴任後、実方は優れた統治を行なひ、京都のみならず現地でも大切にされました。しかし、彼は道祖神に対し非礼を行なつたことで神罰を蒙り、亡くなりました。
西行は、実方を慕ひ、両者を慕つたのが芭蕉でした。芭蕉は、実方の墓を拝むことはできませんでしたが、遠く実方の俤を偲んだことは『おくのほそ道』に書かれてゐます。
次回は「第三 木曾」について見て参りませう。(続)