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価値相対主義と戦後日本憲法学を批判する
1 ケルゼンとラートブルッフ
ケルゼンというのは、日本以外でも、未だここまでの影響力があるのだろうか?価値相対主義に基づく民主主義というのは、ナチを経験した戦後ドイツでは、おそらく傍流ではないだろうか。英米系で法実証主義といえば、オースティン、ハートの流れがある。
60~70年代のアメリカで、リベラリズムに基づく正義論を展開したジョン・ロールズの論敵は「功利主義」であって、「価値相対主義」では
敗戦処理と憲法学の罪
1 正義嫌いと敗戦処理
日本人は「正義」が大嫌いで「正義は人の数だけある」とかいう価値相対主義を信奉しているのだが、そうなった原因は敗戦処理にあったと思う。そして、憲法学の主流もその流れの中にあった。
ナチスを「悪」だと理解して精算したドイツと異なり、天皇制を維持した日本は、戦前の帝国主義について「善でも悪でもなかった」と言う必要があったのだ。
宮沢俊義と尾高朝雄の「主権論争」を読めばわか
我々は不寛容に対しても寛容であるべきか。
1 はじめに
いささか大きな題をつけましたが、もちろん「寛容」論一般について議論するつもりはありませんし、そのような能力もありません。当然、本稿はアクチュアルな問題を念頭においています。
ただ、当該問題を直接解決するというよりもう少し裾野を広げ、私たちが現在立っている位置を確認しつつ我々の原則を確立するということまでで筆を止めたいと思います。原則を確立できれば個別問題に対する回答は自ずと明ら
「リベラリズムの限界」と「キャンセルカルチャー」
ある会員の投稿
青法協メーリングリストにある先生の投稿がありました。
それは、別の会員が差別発言ゆえに学習会の講師を拒否された案件に関するものでした。
当該投稿には「差別的言動を繰り返す、と批判されては、議論が成り立たない」「多様な考え方・受け止め方があることや、一方からみれば十分な理解がないと感じられる主張が提出されることは議論には必然である」「誤解や不十分な理解が、議論を通じてコンセンサス
ヘイトスピーチ規制の法理
私はかねてから「ヘイトスピーチは個人のアイデンティティに対する権利の侵害」だと主張してきた(拙著「ヘイトスピーチに抗する人々」新日本出版社2014年、120頁以下)。 例えば、在日コリアンはヘイトに晒されるのを避けるために人目を避け民族名等自己のアイデンティティを秘して生活しなければならない。これは個人が「自分らしく生きる権利」を行使することを妨げる。
この点、横浜地裁川崎支部2016年仮処分決
「法と道徳の分離」原則の射程
「法と道徳の分離」原則はリベラリズムの主張であるが、それは「道徳に反した行為は直ちに処罰されない」ということを意味するに過ぎない。 「法で処罰されない行為は道徳的にも許される」ことまでは意味しないし、そこまで言うのは「法と道徳の分離」原則に反し、道徳判断を国家に委ねる結果となる。
たとえば、米国は、ヘイトスピーチが処罰されない“自由の国”で知られるが、社会的にはヘイトスピーチは道徳的に厳しく批判