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「リベラリズムの限界」と「キャンセルカルチャー」

ある会員の投稿

青法協メーリングリストにある先生の投稿がありました。
それは、別の会員が差別発言ゆえに学習会の講師を拒否された案件に関するものでした。

当該投稿には「差別的言動を繰り返す、と批判されては、議論が成り立たない」「多様な考え方・受け止め方があることや、一方からみれば十分な理解がないと感じられる主張が提出されることは議論には必然である」「誤解や不十分な理解が、議論を通じてコンセンサスが得られたり理解が深まったりする、それが議論の意義だ」という意見が記載されていたのです。私は、この先生の意見に触発されて少し意見を述べました。

触発された、ということの意味は、元のトランスジェンダー差別の問題から離れ、この先生の投稿に、「キャンセル・カルチャー批判」に通じるものを感じたからです。

キャンセルカルチャーとはなにか

キャンセルカルチャーとは「著名人をはじめとした特定の対象の発言や行動を糾弾し、不買運動を起こしたり放送中の番組を中止させたりすることで、その対象を排除しようとする動きのこと」と言われます。

https://ideasforgood.jp/glossary/cancel-culture/

奴隷制や人種差別に関わりのある歴史的人物の銅像を破壊したり、最近では、スポーツメーカーのナイキが「差別」をテーマにした動画を公開し、不買運動が起こった例等が挙げられるようです。キャンセル・カルチャーを批判する人は「その攻撃性と不寛容さがエスカレートするあまり異なる意見の人を沈黙させ、率直で自由な議論ができなくなる」という懸念を提示するようです(そもそも、「キャンセル・カルチャー」という用語自体、そのような傾向を批判する側が使用する用語のようです。)

トランス問題を語りたがる某氏の一連の発言で、学習会における某氏の発言の場が奪われた、これは、言論の自由、議論の自由を封殺するものであって、まさに「キャンセル・カルチャー」的なものの弊害ではないか、そういう疑問が提示されるのは当然のことだと思います。そして、旧来型の「リベラル」(ここでは「自由主義」の意味で使います)の立場からすると、キャンセル・カルチャーは、言論の自由、議論の自由というリベラリズムの本質的価値を脅かすのではないか、そういう疑問が出てくるでしょう。その先生の投稿から、そのような真っ当な「リベラル」からの「当然の疑問」を感じました。

リベラリズムの限界


私が、この件をそのような角度から観察したくなるのは、私がヘイトスピーチ問題に取り組み、ヘイトスピーチ規制を訴える中で、ヘイト側から「言論の自由」という本来リベラルな価値観を対抗原理として持ち出されることで、「反差別と言論の自由の相克」もっといえば、「リベラリズの限界」のようなものをずっと感じてきたからです。私が引用した記事においても、「キャンセル・カルチャー」として批判の対象になるのは#MeToo運動やBLM運動など、まさに反差別の運動であり、反差別の運動に関わる者は、「キャンセル・カルチャー」批判に常に向き合わざるを得ないものです。

私自身、言論の自由、議論の自由というリベラリズムの本質的価値を信奉するものであり、過激な「キャンセル・カルチャー」がリベラリズムの本質的価値を損なう場合があることを意識しないものではありません。他方、反差別の運動に関わる者なら誰でもそうなのですが、言論の自由、議論の自由というリベラリズムの価値観が、時に差別を温存したり、場合によって差別を助長する場合があることを現実の実感として感じているものでもあるのです。

もっとも分かりやすい例は、所謂ネット右翼が発信するインターネットの発言です。彼らは、日本の朝鮮半島への侵略は朝鮮人に恩恵をもたらしたとの歴史観、それでも慰安婦問題等で日本政府に要求を繰り返す韓国政府のやり方を「たかり」であると決めつけ、朝鮮人は卑劣で劣った民族であるとの前提で、インターネット上で“議論”しているわけです。そのような彼らとの“議論”ほどむなしいものはありません。それだけでなく、在日コリアンに対して浴びせる彼らの罵倒文言は、在日コリアンの人々には「差別」であり彼らの“議論”そのものが「人権侵害」と映るのです。「話せば分かる」「議論が大切」「相手(この場合はネット右翼)の尊重し、相手の立場に立って考えよう」という旧来型の「リベラル」のやり方に、大きな限界があったのは事実なのです。私が2013年に参加した反ヘイトスピーチ運動は旧来型リベラリズムの限界を見据えた形で、「ネトウヨと議論する」のではなく、「ネトウヨを叱る」「ネトウヨを罵倒する」という手法を採用して、一定の成果を上げた運動だったのです。

〝仲間〟の差別発言とどう向き合うのか

しかし、「ネトウヨ」のような分かりやすい例ではなく、本件某氏のケースのような事例すなわち「本来尊敬すべき仲間が差別と思われるような発言をしてしまった場合」にどうするか、という問題があります。リベラルな価値を前提にすれば、そのような場合には反差別運動に使用される「キャンセル・カルチャー」を適用せず、旧来型のスタイル、議論と説得という手段を用いることが適切だとも思われます。私も一般論ではそう思います。

人が、とりわけ政策論に絡んで差別的な発言をしてしまう場合、①自己の主張する政策の正当性を強調するあまり、無知ゆえにうっかり差別的な発言をしてしまったというケース、②政策論を隠れ蓑にして確信的に差別的な言動をするケースの、2つがあるように思います。在特会(在日特権を許さない市民の会)は②の典型でそういう人が他にいないとは限りませんが、某氏のケースもそうであるように、差別的発言のほとんどが①のケースです。そして、オリンピック委員会で女性差別発言をして会長を降ろされた森元首相がそうであったとおり、この人達は、常に「差別の意図はなかった」という反論をするものです。それは本心なのでしょう。そのような場合に反差別運動に使用される「キャンセル・カルチャー」の手法をむやみに適用することは逆効果であり、かえって反差別側への反発を招くとの批判がありえます。

ただ、差別的発言のほとんどが①のケースである以上、①のケースには一切「キャンセル・カルチャー」を適用しないというのは、反差別の側からすれば問題があると思います。無知ゆえにうっかり差別的な発言をしてしまった人が開き直って学ぼうともせず、あるいは被差別当事者に対して差別的な発言を繰り返す場合、そのような人と議論すること自体がかえって差別的言動を拡散させ助長させることがありえるからです。そこで、①のケースであっても、私はどこかで「議論」を打ち切り、議論から非難というステージに切り替える場合があってもいいように思っています。

議論を打ち切る「基準」

そのような限界を画する基準としては、

①「それは差別ですよ」と指摘された場合、その人が立ち止まって考えるほどの柔軟さを示したかどうか、

②とりわけ被差別当事者に対してどのように接しようとしたか、

の2点が重要だと思います。

知識がなくとも「差別はいけない」という一点に一致点があれば、「それは差別ですよ」と指摘されれば、一応立ち止まって考えるはずです。また、「それは差別ですよ」と指摘されるような発言は被差別当事者の目の前で繰り返してはなりません(それ自体が加害だからです)。「それは差別ですよ」と指摘されるような発言は被差別当事者の目の前で繰り返すような人に対しては、早い段階で「議論」から「非難」へとステージを切り替える必要があるでしょう。まして、被差別当事者の反論にも耳を貸さないという人とは早期に「議論」を打ち切り、議論から非難というステージに切り替えなければならないように思うのです。

結論

某氏のケースに対する対応も、「リベラリズの限界」、「キャンセル・カルチャー」の適用範囲という、いわばメタレベルで考えていく必要があります。そして、そのような見地から検討した場合、今回の執行部の措置は正しい対応だったように思うというのが私の意見であります。

初出2021年8月30日 青法協メーリングリスト

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